1月19日
夕方、親父が目覚めた。
少しだけ手術の箇所が痛いと言うだけ、相変わらずの我慢強さを見せていた。
「我慢するなよ」「痛いと言ってくれよ」
そう思った。
1月22日
親父への告知の前に医師からの説明があった。
5年生存率は極めて低い状況とのことだった。
私は、「要するに末期ガンということですか」と聞いた。
医師はストレートな表現を避けたが、誰が聞いてもそれは明らかだった。
問題はどこまで話すかだった。
とりあえず直腸を摘出しなかったことは伏せることにした。
しかし、肝臓や肺への転移については告知し、
今後の抗ガン剤治療や放射線治療への伏線とする必要があった。
間違いなく、あと1年以内に死が訪れることだろう。
冷酷だが、それが結論だった。
お袋は言った。「孫の顔を見ながら余生を送らせてあげよう」と…
私は、「残りの人生を楽しませてやりたい。」ただ、それだけの思いだった。
しかし、親父は、働くだろう。
そう言う親父だった。無理をして、我慢をして、それがいけなかったのだ。
親父の友人は、セカンドオピニオンについて勧めたようである。
多分、誰に聞いても同じ結論だろうが、やりたければやればよい。
国立がんセンターでもなんでも行きたいところへ行けばよい。
私には止めることはできない。
1月29日
これからの治療方針の説明があった。
私は、仕事を早退して、この説明に立ち会った。
空しい話を聞くしかないのだが、これが少しでも命を延ばしてくれるのならと願った。
2月1日
退院となった。
残念ながら仕事をそう休むわけにもいかず、退院には立ち会わなかった。
立ち会えば逆に怪しむだろうから…
それからしばらくは親父に会わなかった。
それは、辛すぎた。
死に行く人に言葉がなかったから…
会っても何を言っていいのか分からなかった。
だから会えなかった。
ただ、私の娘や息子を親父のもとに通わせた。
特に、息子は親父から愛されていた。
少しでも安らぎとなればいいと、ただ、それしかできなかった。