「レベル7 現地から」 | 「ユニットMOMO」momomiのブログ

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3人のハンドベルユニット
(イングリッシュハンドベル)

イベントの予定や報告などを書いていきます。

昨日・・・ 

  momo知人・・「仙人文庫」主宰の仙人から

     ~仙人のもとに送られてきた~

   「玲ちゃんからの手紙」をコピーして

     玲ちゃんと仙人の共通の知人あてに

         送られてきたポスト


仙人とつれ合い、玲ちゃんと玲ちゃんのパートナー・・

  みんなみんな momoが若かりし頃からの

        キラキラ大切なお友達キラキラです ('-^*)/音譜


 物腰柔らかで・・優しい声としぐさが特徴の玲ちゃんが

    語気を強くして訴えているこのお手紙・・・


 momoが読んで、おしまい にしてはいけないとおもい


     ご本人の承諾をいただいて。。。


    ここに転載させていただきました!!


 一人でも多くの人に知っていただきたい


  「レベル7 現地から」 の、ウソ偽りのない正直な声


    どうか 読んでください m(u_u)m


        これが 現実です爆弾ダウンドンッ


  ☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*


「レベル7 現地から」                    

4月初め、突然、日記を書こうと思い立った。
3月11日以降、福島県民としての原発事故被災者と、避難の方々の受け入れ地としての支援者と、両方の立場にいる自分の思いを、日々、記録し、発信する事によって、この大災害とこれからのことを皆で考えていきたいと思ったのだ。
けれど、それは一日で挫折した。
毎日毎日、原発とそれを取り巻く状況の変化があまりにも多すぎて、仕事が終わって夜のわずかな時間で書き続けるのは負担が大き過ぎた。
でも、何かの形で残さなければ。
これは、私の役割だ。
とりとめがなく、又、私の気持ちも変わって行くかもしれませんが、事故後1ケ月の時点での正直な気持ちです。良かったら読んで下さい。

福島第一原発で次々と爆発が起き、放射性物質が大量にばらまかれた直後の3月16日、会津ではひとびとの間に大きな温度差ができた。
福島市で脱原発を訴え続けている市民グループの人たちが会津に到着し「皆、逃げなさい」と言い残して、そそくさと関西へ向かった。
会津で平和活動の中心となって活躍している友人が、それを聞いてパニックになり、子供たちと一緒に関西に避難した。ただ事ではないと解っていたが、それを聞いて私もまた大きなショックを受けた。
“ここで最善の事をする”と私とノリ(夫)は覚悟していたはずだったが、最悪の事を予想し、彼の覚悟がぐらついた。
私もガクガク震えた。私は今、認知症高齢者のグループホームの仕事をしている。実は前日、何人かのお年寄りと一緒に避難できるかどうか、佐渡と長野の友人に聞いてみた。
不可能ではなさそうだった。
でも、職場にはお年寄りの他に大勢の職員がいる。小さな子供を持つ職員もいる。
私を信頼して仕事をしてくれている。
彼らを置いて私が逃げる訳にはいかない。
逃げたら私のプライドが無くなってしまう。
人間として恥ずかしくない生き方をするプライド。
考えてみれば福祉以外でも、医療や役場関係など、簡単には逃げられない立場の人たちはたくさんいるのだ。でも、もし4機全部が大爆発したり、メルトダウンしたりしたら、私たちの命はないかもしれない。
「先に逃げて」とノリに言うが、「別行動はありえない」と言われる。
どうすべきなのか・・・。
胃がひっくり返るような思いの中、とっさに受話器を取る。
普段直接、話す事はめったにない、法人のトップの自宅にTEL。
「皆で避難しませんか ? 」・・・。
その後、一時間近く話を聞いてもらった。(ノリも数十分話した)
実際、私のいるグループホームと隣接施設も含めて100名以上のお年寄り、職員とその家族、と考えると皆で脱出するのはとても困難であることは間違いない。
しかも今、施設では避難の人たちも受け入れている。
そして、町の人々は圧倒的に「会津は大丈夫だ」と思っていて、周りの職員は黙々と仕事をこなしている。

ガソリンや灯油は手に入らず、食べ物も限られているという混乱の中、最悪の事態だけはかろうじて免れ、時は過ぎた。

この一カ月が長かったのか短かったのか、よくわからない。
物資はずい分手に入るようになったが、事故の収束のめどは、まだ全くたっておらず、毎日毎日、たくさんの良くないニュースが入ってくる。
その度に気持ちが、縮む。
幸い会津に降った放射性物質の量はそれ程ではなく、水や土壌汚染も今のところはほとんどない。
でも、今後、放射性物質の影響や風評被害は何年、何十年と続くのだろう。
これから福島県はどうなっていくのだろう。

会津美里町では、原発立地である楢葉町から1000名あまりの避難者を受け入れている。


先日、炊き出しのボランティアに参加した時、あるお母さんは「期間は一言も言われず、一日か二日ぐらいの気持ちで着の身着のまま、パンツ一枚持たず、動物も置きっ放しで来た。」と話されていた。
切ない。
上の方の人たちの気持ちはわからないが、立地町村の一般市民は「雇用を作り、首都圏に電気を送っている頼もしい原発」「電気を首都圏に供給しているという誇りがあった」「安全と言われて、その言葉を信じ、原発を信頼して来た」という声が多い。
ましてや、立地町村以外の汚染地域は完全な「とばっちり」
風に運ばれてたくさんの放射性物質が降り注ぎ、高い線量が続いているのに「安全だから心配するな」と言われ、でも、牛乳や野菜の出荷は止められ、あげくの果てに計画避難と言われた。
そして心配すると過剰反応と言われる。

福島県民は東北電力の電気を使っている。
なのに、首都圏に電気を送っている東京電力の事故で、私たちは取り返しのつかない被害を受けたのだ。
私たちはこの先、何世代にもわたる未来の人たちに計り知れない負債を負わせてしまったのだ。
想像をはるかに超える地震と大津波は、本当に悲しい、無残な爪痕を残した。これは天災だ。
でも、レベル7の原発事故は明らかに人災だ。
度重なる警告にも耳を貸さず、安全と言い続けて来た国と東電の責任だ。
いや、こんな危険でもろい原発を容認し、電気を使って贅沢な暮しを続けて来た日本国民全員の責任だ。
被災地だけでなく、国民全体が、本当に真剣にこれからの事を考えないと、また同じことが起きる。
3月10日の社会に戻る事が復興ではない。
原発に頼らない社会、電気に依存しすぎない社会、少し質素で、つつましくて、地球のすべての命が助け合う、心豊かな社会にしていかなければ、日本はもう終わりだ。

この一カ月の間には、新しい社会を暗示するような嬉しい事もあった。
全国のあちこちにいる親戚や友人が心配して電話やメールをくれた。
何年もご無沙汰していた友人が被爆対策で昆布や梅干をたくさん送ってくれた。
泣きながら電話をくれた友。仙台や南相馬にいる友とも励まし合った。
極めつけは現在四国に住む旧友との再会。被災地支援のため、気仙沼を訪れた際、数時間ではあったが、我が家に寄ってくれた。24年ぶりの再会だった。
また、関西に避難した会津の友人も戻ってきて再会した。
彼女は関西でも心休まることなく、会津の心配や罪悪感で毎日泣いていたそうだ。
なんという体験だろう。とても言葉にできない。
私たちの心はつながり合い、抱き合って泣いた。
この絆を大切にしよう。この絆さえあれば生きていける。

私たちは余計なものを求め過ぎて来た。
被災地以外の皆様、どうか自分自身は何をすべきなのかを真剣に考え、行動に移して下さい。
私たちは私たちにしかできない事をやっていきます。
皆様が変わらなければ、日本は変わらない。
「福島がんばれ」なんて、もういらない。
皆様、がんばって下さい。

福島県会津美里町在住:片山玲子

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  最後まで読んでいただいて ありがとうございましたアップ


             m(u_u)m


      自分自身が何をすべきなのか・・・


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