http://blog.goo.ne.jp/mryupa/m/201509
幸福の科学の大川隆法先生は、『勇気の法』
(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。
安保闘争とは、「日米安全保障条約」(安保条約)に対する反対運動のことです。一九六〇年と一九七〇年に、「六〇年安保」と「七〇年安保」と言われる、二つの大きな山場がありました。そのころ学生だった人のなかには、ろくに勉強もしないで安保闘争ばかりやっていた人がかなりいましたが、結局、それは失敗に終わりました。
しかし、結果的には、この失敗によって、その後の日本の繁栄があったとも言えるのです。そして、日米安全保障条約は今も続き、この条約によって、日米は今も一種の軍事同盟の関係にあります。(中略)
最も大きな山場だった六〇年安保は、岸信介首相のころの出来事です。
そのときには首相官邸もデモ隊に取り囲まれてしまいました。首相官邸を警備している警察は、「首相、早く逃げてください。もう護り切れません。警察の力では無理です。これはもう革命ですから、命の保障はできません」と言ったそうです。そういう内部の事情が書かれたものを読んだことがあります。
そのようななかにあっても、岸首相は、「日米安保条約を結んでいるほうが日本のためになる」という考えを貫き、安保条約の改定を乗り切ったわけです。
そして、すぐに岸首相は退陣を表明しましたが、その後、暴漢に腿を刺され、重傷を負っています。まさに“革命前夜”とも言うべき時代であったと言えるでしょう。
しかし、その結果を現在の目から見てみると、やはり、「安保条約を破棄しない」という判断のほうが、あのころ反対していた多くの人の見方よりも正しかったように思います。(中略)
あのとき、もし日本が左側の陣営に屈して安保条約を破棄し、旧ソ連や中国などに付いていたら、その後の日本の繁栄はなかったでしょう。あるいは、もっともっと悲惨な時代になり、国民のうちの一千万人ぐらいが殺されてしまっていたかもしれません。多くの人が「思想犯」として捕えられ、殺されるようなおそれもあったのです。
当時は、北朝鮮が「地上の楽園」などと言われ、理想的な国のように言われていた時代です。そして、日本のかなりの数の人は、「日本を、ああいう国のようにしたい」と考えて安保闘争などをしていたわけですが、実は、その多くの人が間違った情報に踊らされ、北朝鮮に幻想を持っていたのです。
その後、もし日本が北朝鮮のようになっていたら、それは大変な不幸であり、地獄のような状態になっていたでしょう。仮にそうなっていた場合には、読者のみなさんの身内も、かなり殺されていたはずです。しかし、安保の破棄をしなかったことによって、実際には、そうはならずに済んだのです。
このように、安保闘争では大勢の人が挫折感を味わいましたが、結果を見ると、「負けて良かった」ということもあるのです。
(86~89ページ)
安保闘争とは、1960年と1970年に、二つの大きな山場があった、「日米安全保障条約」(安保条約)に対する反対運動のことである。
それは失敗に終わったが、もし日本が左側の陣営に屈して安保条約を破棄し、旧ソ連や中国などに付いていたら、その後の日本の繁栄はなかった。
安保闘争では大勢の人が挫折感を味わったが、結果を見ると、負けて良かったということもある──。
いわゆる「60年安保」のとき、反対運動と断固として戦った岸信介
首相は、いまの安倍首相のおじいさんにあたる方です。
そういったことまで頭において、いま、安保法制に反対して国会を取り巻く運動をやってるような人々の動きは、「あの夢よ、もう一度」的なことを考えておられるように、感じられてなりません。
しかし、何をどう理屈づけたら、いま国会で審議されている安保法制が、“戦争法案”だなんてことになるというのでしょうか。
「国防
」の大切さについては、もっともっとその基本が社会常識になっていかないといけないのではないでしょうか。
大川隆法先生は、ここでは「負けて良かった」例の一つとして、安保闘争を紹介しておられます。
今回の安保法制の反対運動も、50年や60年のちには、安保闘争と同様に「負けて良かった」例の一つとして語られることになるのは必定なんだろうと私は思うのです。