祝福家庭バリバリ伝説-「あんた、ホントにバリバリやね~」と言われたい。

  • 17 Feb
    • セウォル号?タイタニック号?救命ボート?船を選ぶ前に、まずは、泳ぎ方を覚えましょう。

      ■審判回避プロジェクトとは。サンクチュアリ教会支持の堀夫人が、首から看板を掛けて家庭連合本部礼拝に参加したら、通報されて警察に逮捕された。それをサンクチュアリ教会が、それ見たものかと、ブログやSNSで組織的仮想敵のイメージを悪に増幅しながら、中の信者の一体化を進めるという中国共産党並みの手法をとっているらしい。これを彼らは、審判回避プロジェクトと呼んでいるらしい。■相対的善悪観と真の愛の根本的違いお父様の御言葉で正しくてもやり方が滅茶滅茶であればだめだという御言葉は有名である。冷戦が終了したのは兄弟時代から父母時代という愛の勝利圏によって終了したのであり、民主主義が全て正しくて終了したのではない。その証拠に、お父様は、民主主義の中心であるアメリカのマンハッタンで神様が離れようとされていると泣かれたのも有名な話である。これは、いつも言っているように反共と勝共の違いであり、お父様は勝共だったのだが、冷戦が終了しても、多くの祝福家庭は反共のレベルを超えれなかったので、事実上、相対的善悪観の段階に今も留まっているというわけである。■手段の為に目的を選ばない人が勝手に袋小路にはいる。お父様は、目的が正しければ、何をやってもいいと語られていない。逆に、方法論が間違っていれば駄目であると明確に語られている。例えば、基督教会に行って、礼拝の時間に首からイエス様は失敗したと書かれた看板を掛けて、参加しなさいと語られたことがあるだろうか?お父様の中には、相対的価値観は存在しない。目的は創造目的であり、その方法論も、創造目的の核である真の愛に即していないとお父様は認められない。明確である。それ故、お父様は、海外宣教摂理の際に米国に対して、日本の宣教師は、北米の既成基督教会で寝泊まりして、そこに所属してその教会に侍っていきなさいと語られた事がある。■創造原理を軸にしないので、人間の堕落と復帰で混乱しているだけ目的も方法論もすべて創造目的と真の愛で一貫しているので、超宗教が可能なのである。基本的理解として、お父様は本来宗教団体を作る必要がなかったわけである。私達はオリジナルプランから思考しないので、堕落・復帰のコンセプトで単に混乱しているにすぎないのである。とりわけ、日本人は、堕落・復帰が神とは無関係に自分のコンセプトが存在するので、先祖崇拝と清平摂理を混合したり、神の血統の概念を、この世の韓国や日本の民族主義的な概念と混合したりするのである。要するにわかっているようで本当の意味で創造原理が理解できていない現状がある。 それは、人を見ているのであって神を観ていないからである。■やっている事はそのへんのチンピラと同じ最近、堀夫人が、日本教会本部の礼拝に参加して、逮捕されたらしい。私は、サンクチュアリ教会とはチンピラの集まりなのかと首をかしげてしまう。やくざの世界には、最初に、敵対する組織に対して、鉄砲玉と呼ばれるチンピラが相手の組織にちょっかいをかけて、抗争を始めるのが常套手段である。 彼らの姿は、荒野時代に我々が対峙した左翼とよく似ている。左翼の根底には、私達が被害者であるという組織的奴隷観という非常に古いマルクスのような疎外感が漂っている。しかし、サンクチュアリ教会もUCIも家庭連合も本質的には同じなんだよね。なぜかというと同じレベルの人が別の組織に移動しているだけだからね。なので、UCIは、昔、家庭連合に対して沈むタイタニックを比喩していたし、サンクチュアリ教会は、救命ボートという表現を使っている。 同じレベルの人の船に乗っても、同じ結果でしょう。(笑) それぞれの組織には問題が存在する。こんな事は、当たり前でしょう。もともとは、同じレベルの人達のあつまりなんだから。反対牧師が経営する教会は、新規伝道をする必要がなく、食口を監禁して親から莫大な資金を獲得して、人材と経済を両立していた。新規伝道ができるわけがありません。 どこの船が安全かなと考える思考の人が、新規伝道ができますか?やっている事は、反対牧師と同じでしょう。脱会届をインターネットで表明して、私は馬鹿ではないかと考えるのです。祝福家庭は、そこまで馬鹿ではないですよ。匿名の無料ブログに付き合っている暇がないだけです。 船が必要なのではなく、自分自身が泳ぐ力を付けなさいという事でしょう。なので、天一国主人なのではないですか?公共の電波を使って恫喝したり、主人意識を主張する子女様のフォロアーって何なんですか?その矛盾に気が付きませんか?しかし、やっている事は、ブログのコピペでしょ。あなたの人生をそういう時間に使ってそれでいいんですか?■組織論にこだわる人達の思考の段階区分①まず、原理と自分の重要度の違いに気が付いていない段階です。これは、何かというと、原理を聞いても自分の重要度の方が上なのです。なので、結論として、自分の大切にしているものを擁護してくれる組織や代弁者になびくフォロアーです。なので、組織や代弁者が批判されると自分そのものが批判されていると大きな勘違いをしている段階です。それ故、自分の組織や代弁者を盲目的に崇拝するわけです。これが実に大半を占めています。 サンクチュアリ、UCI、家庭連合という組織の中に、それぞれ多くの問題がある訳ですが、それは当たり前です。なぜなら、同じレベルの人がそれぞれの組織に鞍替えしたのに過ぎないからです。これが最初の段階です。②次の段階として、組織の問題が見え始めて、それに対して反発をして不満が出るわけです。そんな事は当たり前であり、自分自身をみればわかるでしょう。完全な人間同士が創った組織でないので問題があるのは当たり前ですが、それを組織の責任にして、組織や教会という抽象的な概念に向かって叫んでいるケースです。 環境に向かって叫んで環境が変わる事のみを願っているだけです。原理は、環境を変えれば自分が変わると教えていますか?そうであるならば、山籠もりを推奨するのと同じです。③最終段階で、私達が悟らなければならないのは、誰が悪い誰が正しいではなく、自分自身が創造目的に向かって生きているのかという部分に辿りつかないといけないのですが、いう事は簡単でも行うことは難しい訳です。 なぜかといえば、①でも述べたように、創造目的が自分の優先順位の最上位に来ていないので、本当に自分が重要であることが本当の目的になり、創造目的がお飾りになっているからです。つまり、原理を語りながら、原理と離れた行動をしている本当の原因は、そこにあるわけです。それ故に、天宙主管の前に自己主管、真の自分を探しましょうという話になるんのです。  以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓         いつまで、誰が、正しい・誰が、悪いごっこをやり続けますか?誰が正しい、誰が悪いと叫んでいるフォロアーのブログにそろそろ飽きませんか?(笑) 

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  • 16 Feb
    • 分派連合ブログランキング状態になっているので久々に更新してみるの巻。

      ■夜の神様や昼の神様原理の最も重要な点は、神様がなぜ、人間を創造したのかという点である。これが、明確であれば、すべての問題が解決する。逆に言えば、この点が明確に理解できていないと、わかっているようでわかっていない状態になる。私は、なぜ、お父様が、晩年に、夜の神様や昼の神様の内容を語られはじめ、これは、今まで話していない話であると前置きをされながら、なぜ、最後の段階でそれを語られ始められたのかをずっと考えてきた。■思考法が観を決定するその私なりの結論は、神様が人間を創造する前後から順番に理解しないと、原理の核心部分には、私達の、思考が届かないからだというのが現時点での私の見解である。例えば、段階的に、旧約時代、新約時代、成約時代と様々な歴史的摂理的転換がなされてきた訳であるが、現在、最も私達が越えなければならない障壁は、教義ではなく、教義をとらえる私達の思考法の方なのである。■先天時代から後天時代の大転換個人的には、天動説から地動説ぐらいの解釈の変更を求められているぐらいのパラダイムシフトであると感じているのである。それが、先天時代から後天時代への大転換である。順番に説明していきたいと思う。一番大事なのは、創造原理をどのレベルで認識できるかである。■肉身と霊人体を完成させる為に必要なもの神様は、人間に二つのものを与えられた。それは、心と体である。もう少し明確に言えば、霊人体と肉身である。肉身は、原理の自律性と主管性によって完成すると原理講論では説明され、統一思想では、さらに具体的に、この「原理の自律性」は、有機体の生命力、「原理の主管性」は、その生命力の環境に対する影響力と説明されている。霊人体は、責任分担を全うする事で完成するわけである。■責任分担の理解は、堕落人間対象と同じ理解でいいのか?では、責任分担とは何か?これまで、私達は、責任分担とは、完成するまでは、性関係を持ってはいけない。つまり婚前交渉してはいけない事であると教えられてきた。要するに「取って食べてはいけない」という禁止事項である。ここで、私達は、後天時代、すなわち王権時代に入り、お父様は原理講論から原理本体論に代わる際に語られた内容に重要な部分がある。■先天時代と後天時代の祝福家庭の位相と修練・教育の変化それは、これまで、お父様は、祝福家庭に対して堕落人間としての修練をしてきたのであって、本然の人間としての教育をしてきたのではないと語られたのである。これが何を意味するのか誰も関心がないのでわからないかもしれない。■責任分担が禁止事項のみであるわけがないさらに、その際に、神様は、アダムとエバを教育する際に胸にかき抱いて耳元で囁くようにして教育するはずだったと語られ、声を荒げて叫んだり叱ったりするのは、堕落人間に対してであると語られたのである。こう考えた場合、「取って食べてはならない」という禁止の内容のみを守れば自動的に完成するかといえば、そうではないのは、自分たちの二世を見ればわかるだろう。必要条件であっても、必要十分条件ではない、つまり、それだけでは駄目であるという事である。■責任分担をなぜ与えようとしたかの創造原理的理由が重要では、責任分担の核心を理解するうえで重要なことは何かといえば、なぜ、神様が人間に責任分担を与えたのかという部分である。原理講論には、堕落を防止するためだけの理由でないことがわかる。それは、神様の創造性と主管性を賦与するという部分がとても重要なのである。これが、創造原理的理由なのである。■神様が創造した人間の体を学んでみよう人間の体は、ホメオスタシスという恒常性維持機能によって、体温をはじめとした体の機能を一定に守るように作られている。ウィルスに感染した場合、熱が出るのは、体温をあげて細菌を殺すために熱が出るのであり、これもホメオスタシスであり、免疫性もその一環である。では、肉身のゴールはどこにあるかといえば、生命維持なのである。では、どのようにしてそれが形成されるかといえば、過去の最適化なのである。その最適化が記憶を通じて行われているのである。例えば、過去に危険な目に合ったら、その場所を避けたり、その際に、悲しい情動があったならば、その情動が記憶に刷り込まれて、現在に影響を与えるようになっているのである。■現在の自我を形成する人間の記憶のからくりそれ故、記憶は、喜び以上に悲しみや苦労のほうを重要度として長期記憶に格納するのである。それ故、喜びも悲しみも人生の中であっても、年を取れば保守的になるのは当たり前であり、それが人間の体の仕組みなのである。つまり、人間の体は、過去から現在への流れを持っているのである。これが、過去の体験を通じた記憶によって形成され、その記憶は、肉身の肉的五感と深くかかわっているのである。■目的を持つことは時間軸を変える事これは、過去が現状を作り上げているのであり、それで私は、これを、組織論によって刷り込まれた組織の奴隷ではなく、過去の情動によって刷り込まれた過去の奴隷と呼んでいるのである。しかし、人間が堕落しなければ、神様から与えられている創造目的が存在するのである。最先端の科学によると、人間が、目的を持っていた場合には、ホメオスタシスつまり、現状維持ではなく、ゴールに従って自我が構築されていくと解明されている。■霊人体と肉身の理解は、神の創造を理解する重要なカギつまり、肉身を完成させるための原理の自律性と主管性は、過去から現在であり、霊人体を完成させるためには、創造目的の完成、すなわち、過去から現在に影響を受けるのではなく、創造目的、つまり未来の構想理想から現在が影響を受けるようになっていたはずなのである。これを解くカギが、神様の創造性と主管性をどのように展開するかという具体的な部分になるのである。■先天時代と肉身、後天時代と霊人体の深い関係性私の日記をじっくり読んできた人はだんだん全体像が見えてきたと思うけど、実は、背景には、膨大な理論体系が存在するわけです。普通、堕落人間は、創造目的を失ったので、過去から現在に向けた思考をしていたわけです。これが、蕩減復帰摂理時代であり、先天時代です。しかし、お父様は、後天時代を宣布され、原理本体論を本然の人間として私たちを観られながら、教育を始められたわけです。■構造主義の終焉と認知主義の台頭は、先天時代と後天時代の関係しかし、ここで問題なのは、新しい真理をもらってもそれを受け入れる私たちの思考が、堕落人間的な、過去の奴隷、過去が現在を決定するという思考しかできないのです。これがまさしく哲学思想でいえば、1980年代ぐらいまでの構造主義的な思考に属しているわけです。この代表格が時系列を核にした三段論法です。一方向、つまり過去が現在に影響を与えるという時間の概念です。■創造原理は双方向でも私たちの思考は一方向しかし、本来の神様の摂理は、未来の構想理想が先であり、現実が後なので、時間論は未来が現在を決定しているという概念なのです。つまり先のものが後になり、後のものが先になるという事なのです。実際に創造原理を観ればすべてのものは被造物は、授受作用の関係で作られ、双方向になっていて一方方向ではないのです。さらに、存在が先ではなく関係性が先なわけです。■自我をパスト・ドリブンからゴール・ドリブンにギアチェンジする人間は、どのように自我を決定するかといえば、自分と関係のあるものとの関係性で自我を構築しています。つまり人間は、自分が重要であると考えている評価関数であるという事なのです。では、この重要と考えているものは何かといえば過去の体験とそこに不随した情動であり、つまり、原理の自律性と主管性にのみ帰属した過去中心、つまりパスト・ドリブンなんですよ。■目的が手段化する本当の理由ここまでいいですかね?つまり、パストドリブンからゴールドリブンに戻さないと動物と同じだという事です。なので、観が重要なんですよね。ビジュアルで明確なゴールです。そのゴールはもう決まってんですよ。それが創造目的です。しかし、原理を語りながら、多くの人が重要度の最上位に創造目的がないので、手段が目的化するんですよね。■私達の価値観の根底だからやってきたと、過去とその責任分担という仕事を価値に置いているんですよ。過去は肉身に属するので目的が手段化して唯物的になっていくんですよ。まあ、このあたりまでにしておきましょう。 以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓         いつまで、誰が、正しい・誰が、悪いごっこをやり続けますか?誰が正しい、誰が悪いと叫んでいるフォロアーのブログにそろそろ飽きませんか?(笑) 

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  • 19 Nov
    • 2016年もあとわずか。

      2016年も40日と少しとなりました。2015年の終わりに2016年は大変な年になるよと予想していましたが、その通りになりましたね。その大きな理由はパラダイムの変化にあります。 神様は、本来、人間に二つの内容を与えました。それは、原理の自律性と主管性であり、これは人間だけでなく万物にも共通に与えています。つまり人間でいえば、肉身の成長や完成に必要な内容を共通に与えました。これは、人間が生命維持のために必要な恒常性維持機能(ホメオスタシス)として表れています。 それに対して、万物には与えずに人間に与えた内容があります。それが責任分担であり、その目的は、創造目的でもわかるように、真の愛を通じた、霊人体の成長と完成および感性の研磨という点にあります。では、なぜ、責任分担を与えたかといえば、神様の創造性と主管性の賦与という重要な内容が存在します。 人間は堕落して、創造目的を失いました。堕落は天使と人間の不倫なる性的関係が基本的理解として原理講論では説明されていますが、さらに本質的な堕落の意味は、創造目的喪失という点にあります。目的を失った人間は、過去の延長上に現在が存在するというパラダイムを持ち、創造目的を失った堕落人間は、肉身を中心とした現状維持が目的になります。 それ故、人間は、過去の奴隷となり、過去の延長上に現在が存在するという肉身の肉的五感を中心にした過去の記憶が現在を作り上げるという堕落圏の中に留まるようになりました。現在が、過去の延長上に存在するという概念であり、これが、過去の清算という蕩減復帰摂理歴史の基本的理解に繋がっています。 しかし、本来は、過去が現在を決定するのではなく、未来が現在を決定するようになっています。これが、神様の創造理想であり、それを主導するのは、霊人体に属する霊的五感で在り、未来の神様の創造理想が主体であり、それに従う現在は対象です。それ故、怨讐サタンを分立するという過去の概念から、創造理想を心に抱きながらそれを生活の中で実体化するという家庭盟誓時代になりました。 蕩減復帰摂理時代の終焉をお父様は生前に何度も宣布してこられましたが、それは過去を現在が清算するという概念です。この期間、お父様は祝福家庭に対しても堕落人間としての修練を行ったと語られてきました。しかし、王権時代の到来と共に語られた事は、本然に対する教育として語られるようになりました。 つまり、同一の祝福家庭に対して堕落人間の修練として接してこられた時代が存在し、ある段階から本然の人間に対する教育を行われたということであり、それが原理講論時代と原理本体論時代の違いでもあるという事です。過去が現在を縛るのではなく未来の創造理想が現在を決定するという事であり、それ故、現在の位相を決定する創造原理の概念の理解と私達祝福家庭の位相やアイデンティティの認識が非常に重要な時代になりました。 原理解釈の話題で花を咲かせ、どちらが正しいかと勝手に混乱するのはそれぞれの責任ですが、重要な点は、原理が一宗教団体の教義ではないという点で一致するのであれば、語るのではなく、そのように生きる事にそろそろ目を向ける必要が重要となります。2017-2024年は王権時代の完成期に突入します。過去の縛られるのではなく創造理想を実体化できるように希望をもって頑張りましょう。   以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村 2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 20 Apr
    • 結局、何が何だか分からなくなっている人へ

      ■原理の基本は主体と対象原理は、非常にシンプルです。基本は主体と対象です。組織が主体であると考えている人は、その組織に依存するし、逆にその組織を批判する。きわめて単純です。しかし、主体は組織ではなく家庭であると考えている人は、自分の家庭であるという基本的な主人意識があるので、何かあれば自分で解決を探ります。■家庭の責任は自分が持つ当たり前ですが、自分の家庭は自分が解決しないと誰も解決しないからです。しかし、組織が主体の人は組織に解決法を求めます。しかし、組織はあなたの家庭はわかりませんし解決できません。組織上、いつ人事になるかもしれない人に、神様が喜びを共有しようとした家庭の責任を丸投げするのはあり得ません。■創造性と責任分担神はなぜ、創造性を与えたのでしょうか?神様は人間に誰からも介入される事なく自分で決断して自分で責任を持つ事で、神様がどのような思いで人間を作ったのか?その喜びと苦労を共有して真の親子になりたかったからです。それ故、創造性は、最初から最後まで自分が責任を持つという立ち位置を自分で決めないと働かないようになっています。■創造性と無意識それ故、自分で責任を持つと決めた人は、神様の創造性と出会い、いわゆる導かれて自動的にその解決を創造的に行うようになります。創造性は無意識と繋がっているからです。それ故、自分の重要性を創造目的に繋がないと原理軌道に乗れないのです。■主人意識の重要性結論として、主人意識を持った天一国主人であるという意味を正しく理解できないかぎり、いつまでたっても、原理の自律性を主管性でのみ生きる万物と同じレベルを超えれないのです。■なぜネガティブになるのかそれ故、組織を主体にすると、自分のゴールを自分で決めれないので、脳機能によって、自分の重要度が肉体を環境的危機から守る防衛本能によって支配され、どんどん、過去の出来事とネガティブな感情に支配されて行きます。目的がすり替わった事に気が付いていないからです。■本当の危険水域は組織ではなく思考法の問題ある人が、以前、組織は危険水域に入ったといっていましたが、私から見れば危険水域にいるのは、ネガティブな過去を毎日、ブログに書いている人と、それに対して過去の怒りの記憶を増幅しながら、自己評価を下げて、自分の正義を掲げて、真の愛とは真逆の活動を継続している人たちです。■創造目的を奪われる人のメンタリティの変化本来の目的ではなく、手段の目的を追っかけているので、本来の目的と手段の目的が対峙しながら、臨場感の高い怒りを伴う後者を選択しているので、論調がずれていくのです。これは、共産主義運動に走るメンタリティと同じです。理想を掲げて、段階的に目的が手段となり、最後は共産革命の流れに突入するのです。彼らは、自己正当化する為に意図的に嘘を肯定しますが、上記の過程を繰り返すと結局、過去の自分の神体験までも否定し始めます。■メンタルの奴隷化そして信仰を失った人は、不可視的なものに対して段階的に批判します。なぜならば、手段の目的は組織論になるので結局、過去の奴隷になるのです。そして私達は奴隷だったと思い込み、自己評価をどんどん下げていくので、叫び始めるのです。お父様は天使長を僕ではなく弟であると語られています。■組織の内と外の議論は手段の目的の議論同じ原理用語を語ってもその人は、完全に外から物事を見るようになるのです。しかし、実は、組織の外から見る事や組織の内から見る事が重要ではありません。組織の内から見ようが組織の外から見ようが、それは結局、組織を基軸に考えているのです。従って、どちらが正しい間違っているというのも所詮、同じレベルなのです。■創造目的を失った事が人間を僕や奴隷にまで追い込んだそれ故、創造原理、創造目的で見ているのかが重要であると考えるのです。組織の外と内の論理を繰り返す人は結局、組織論の枠で考えて、原理とは無関係なのです。しかし、原理を語りながら自らの価値観を主張しているので自分自身も混乱しているのです。■創造目的が全ての基準これは、実は、組織問題、教義論争以前の問題なのです。しかし、それがわからないのです。組織は人間が作るものであり、教義解釈もまた、真理に対して人間の解釈が入るものです。なぜならば神様は真理を段階的に与えているからです。しかしながら、創造原理を神様は、創造が始まって以来一度足りとも手を加えてはいないのです。■変えるべきは組織の体質でなく我々の思考法こう考えた場合に、創造原理の時代であるというのならば、創造原理を基軸にした思考をしないと、祝福家庭は過去の奴隷となり、環境が変わってほしいと泣いている奴隷にしか過ぎないわけです。■家庭盟誓の重要性すべての出発点は非常に簡単です。毎日、唱和している家庭盟誓の「天一国主人」にいつかなれるかな?ではなくて、「天一国主人」なので、すべての責任を私が持つと決めてしまうことです。組織を語る人は結局、それがないのです。その証拠にあなたがやりますか?というと、ババを引かすのかと宣うのです。わかりますか?組織論でもなく、教義論争でもなく、真の家庭の問題でもなく、あなたが、自分の立場を決定しようとしないので、創造原理も脳の機能も停止している。ただそれだけなのです。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 13 Apr
    • 手段と目的と動機の話ーなぜ、組織論、教義論争以前の段階の混乱と主張しているのか?

      ■手段と目的と動機の話手段が目的化すると、手段用の別の目的が登場して、本来の目的が見えなくなります。これは、ゴールが移行して、本来の目的が、認識の盲点に入るからです。目的によって動機が決定しますから、目的が知らないところで変わると、動機が下がります。本来の目指していた目的に対して、動機が奪われたので、力が出なくなり、気がついた時には、本来の目的とは、限りなくかけ離れた場所に連れてこられているので、私は、何をやっているのだろう症候群にはいりますそして、本来の目的を遠回しに否定し始めます。過去と現実の奴隷の出来上がりです。これは、原理以前の話です。大半の人が自分で勝手に袋小路に入っています。なので、真の自分を探す必要があります。私の日記のなかで、特に認知科学の話に興味を持って頂いた人は、上記の話がある程度、理解できると思います。■フォロアーとオーナーの根本的違い特に、目的と手段と動機の関係が重要なのです。なぜ、目的が手段に変わるかという部分に関しては、その人がその目的を義務感使命感でやっているからです。つまり、神様の創造と同様に、本当はやりたいという動機が先で目的が後のですが逆なのです。多くの人が、目的をアベルから、もらってからその目的に対して彼らが、あなたに動機付けまでを行っているのです。なので、あなたは、その目的の奴隷になっているのです。これは、素晴らしい講師の講義で喜んでいるのと同じです。しかし、心からみ旨を愛している人は、自らが動機をもって最初から最後まで自分の責任で、目的に臨んでいきます。当然、自分自身で動機をつけているので、全て自分のものになっているのです。これは、大企業の社員と個人経営者の違いです。今の時代は、メンタル的には、大企業のエリート社員を選ぶのではなくて、自分で全てに責任を持ち、自分をコントロールできる小さくも一国一城の主を選ぶ時代です。そうでないと、氏族メシアのパラダイムには絶対に届かないでしょう。これを主人といいます。実は、このフォロアーとオーナー(主人)のメンタリティとその姿勢の差が成功と失敗の分水嶺になっています。フォロアーは、誰かに動機を与えてもらわないと継続できませんが、オーナー(主人)は、それが必要ありません。これが根本的違いなのです。■なぜ、手段と目的が逆転するのか?頭では、本来の目的を考えているのに、いつも目的が手段に変わる人は、実は、無意識の中で本当の目的に対して拒絶感をどこかで覚えているのです。それ故、目的が簡単に手段にひっくり返されてしまうわけです。自己価値を主張できる手段の目的に逃げ込むのです。私が、組織論や教義論争以前の段階と話しているのは、この点にあります。いくら立派な車を買っても運転の仕方や免許がないと意味がありません。いくら立派な原理をもらってもそれを扱う自分自身を整理できていないとその原理を使うことができないのと同じです。反対ブログをざっと読みこんでみると大半は、手段と目的が逆転した内容ばかりです。それが組織間の議論に如実に表れてきます。しかし、それがわかりません。本来の目的を謳いながらやっている事は手段の目的の軸で思考しています。なので、いつも話がすり替わります。しかし、彼らにはそれがわかりません。自らの二つの目的の中で勝手に混乱しているからです。しかし、脳は二つのパラダイムを同時に認識できません。なので、もともと組織に怒りを抱いている情動の臨場感の方に、つまり、手段の目的である組織論の枠から抜け出れないのです。非常に簡単な話ですが、彼らにはわかりません。認識の盲点になっているからです。■本然の世界と堕落世界は同じフォームの表と裏では、もう一度、認知科学の点から創造原理との接点をまとめてみます。これが理解できれば、堕落と本然の世界の観点を別の視点で理解できるかもしれません。人間は、各自の重要度の優先順位で認識を行っています。そしてもう一つの特徴は一つの視点、一つの観点でしか物事を捉える事ができなくなっています。この際に、全てのものを同時に認識すると、その消費エネルギーに対してエネルギーを生み出す人間の消化器官自体が追い付かなくなります。それ故、脳は自動的にそれを制御するために、認識に対して優先順位をつける訳です。人生の目的を生きずに生きる人は原理の自律性と主管性によって生きる存在であり動物と同じで過去に生きる存在です。しかし、人生の目的をもって生きる人は、自らの重要度や優先順位を過去から選び出すのではなく目的から選び出します。その為に、その目的に必要な認識のみを優先的に自動選択し、それ以外の認識は、RAS機能によって目的と無関係の認識を遮断されます。この遮断された領域をストコーマ(認知の盲点)と呼びます。もし、創造目的が完成したら、人間の脳は創造目的と真逆の事は自動的に遮断するので堕落する事自体が不可能になります。つまり、創造本然以外の認識は、RAS機能で遮断され、堕落世界そのものが、ストコーマ(認知の盲点)となります。そして、創造本然の世界が、各段階のホメオスタシスやコンフォートゾーンとなり、そこから逃れる事を脳自体が拒絶するように働くからです。脳科学は、実は、すでに、天国の仕組みを解明する段階を迎えているのです。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 08 Apr
    • 認知科学と原理の創造性における接点

      認知科学の最先端の機能脳科学の観点からの、人間性の創造性の説明が非常に興味深い。科学もこの段階まで来ているのかを知る事が非常に重要である。■脳と記憶の仕組み「機能脳科学」によると、脳は、過去の臨場感の高いものを自分の重要なものと判断して、それを記憶し、それが自らの信念や価値観に直接的な影響を与える。これが無意識な段階まで刷り込まれる。前回、説明した私の車酔いの例のように、いくつかの環境が整えば、過去の記憶を、自らが引っ張り出して、臨場感の高かったその時の五感の記憶を、無意識に、再現して同じ繰り返しをしてしまうのである。■肉的五感が臨場感を支配する各自の現実(堕落)世界人間は堕落した為に、霊的五感よりも肉的五感に極端に寄りかかる傾向にある。従って、大半の臨場感というものは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚など肉的五感を通じて、作られるので、圧倒的に有形実体世界の影響下にあるという事がわかる。つまり、肉的五感が感じた臨場感の高い有形実体世界で、体験した過去の出来事を、私達は、「現実世界」と呼んでいるのである。先回も説明したように、一人一人の重要度は違うために、RAS機能によって遮断されたストコーマ(認知の盲点)も違う為に、この「現実世界」もまた、認識する人によって違うのである。■なぜ、噛み合わないのか、教義論争以前の課題それ故、すべてを、感情的に、性格の不一致と考えている事が如何に幼稚な議論であるかがわかるのである。大半の場合が、これは性格の問題ではなく、脳の機能の情報処理によって起きたそれぞれの世界観の違いの話なのである。先回も説明したが、脳は、防衛本能の理由から、過去の失敗やその時の感情を鮮明に記憶し、それを回避するように働くのである。嬉しかった記憶以上に辛かった悲しかった記憶の方が鮮明に残るのはこの為である。それ故、肉的五感のみに完全に頼って人生を生きようとすると人間は、必然的に、過去の失敗の記憶の奴隷になり、記憶が何度も再現するとその度ごとに、自己評価がどんどん下がって自分に自信が持てなくなるようになる。こうなると環境や他人をさばいて、自分もさばくという負のスパイラルに落ちていくことになるのである。■霊肉の序列とそのバランスと矯正本然の人間は、霊的五感と肉的五感のバランスがいい。人間の堕落を見てもわかるように、霊的堕落、肉的堕落の如く、本来は、原理で言われているように、霊的世界が肉的世界に影響を与える序列であり、神様の創造も同様に、構想理想である創造原理が先であり、それを実体展開した被造世界の創造がその後である。常に、霊的世界を立てて実体化し、本来は、霊肉の五感もその序列である。しかし、堕落によって、霊的五感の霊的感性を失った人間は、もはや他の動物などの万物と同じ、それ以下の状況で、大半は、過去に生きているのである。では、これをどのようにして克服するという話である。人間が時代的恩恵により知能と心霊によって真理を理解でき、さらに、終末には、とりわけ心霊部分が重要になると原理では説明されている。つまり、霊的感性や霊的五感を使い、肉的感性や肉的五感以上の高い臨場感を持って、過去の自分の重要度で築かれた自分の現実世界(堕落世界)を克服すればいいという事になる。こうすると、霊的五感が肉的五感に、霊的世界が実体世界に影響を与えるようになっていくのである。■現在、流行しているのコーチングの仕組みここで、脳機能科学が説明するのは、コーチングなどで言われているゴール設定の話である。実体世界は、過去によって築かれているが、霊的世界は、未来を築く事ができる。つまりゴール設定というものは、過去ない、まだ見ぬ未来であり、無形実体世界に通じるので、過去によって築かれた有形実体世界(堕落世界)の干渉の外に作る事が出来るのである。つまり、ゴール設定は、まだ、見えない不可視的な霊的世界に存在するので、可視的な現実世界ではない。それ故、霊的五感を必然的に築かなければならないことになるのである。つまり過去の自分の重要度によってできた現実の臨場感以上の世界観を、記憶の仕組みを使って、霊的五感を通じて構築しようとする試みである。■人は一つの視点でしか認識できない以前も日記で紹介したが、人間は一つの視点でしか物事を認識できない。これがパラダイムシフトの必然性でもある。今までの見方では解釈できなくなったので、別の見方でないと現状が理解できなくなる。これが、パラダイムシフトの意義である。過去の記事の例を使うと、「老婆と貴婦人を同時に見えない絵」の話や、「FEDXのロゴを、ロゴとして見ている時は、DとXの間の矢印は見えるが、文字として認識する場合は、矢印が見えない」という話や、「自分の時計の文字盤が思い出せない」話の結論は、人間は一つの視点でしか見えないという事である。それ故、それをどのように見るのかという「観」の重要性やその教育という話につながるのである。■人間の矛盾性と認知不協和では、霊的五感を使って無形実体世界に、ゴールを描き、それを、臨場感高めて、肉的五感を通じて、影響を受けている現実世界の臨場感と同等ぐらいまで行くと、目指しているゴールがあるのに現実世界はそうなっていないというように、心の中で激しい葛藤が起きる。なぜならば、人間は、一つの視点でしか物事を認識できないのに、脳に情報処理される臨場感は二つあるからである。つまり、これが、創造理想世界と堕落世界が自分の中で葛藤を始めているのである。これを原理講論の序論では、「人間の矛盾性」と関係する部分である。これを認知科学的に説明すれば、「情報世界(無形実体世界)と物質世界(有形実体世界)の二つの臨場感の間での認知不協和が起きている」という表現を使うのである。■認知的不協和と創造性の話この認知的不協和は、いわゆる葛藤になるのであるが、これを継続しながら、それでも、絶対に自分のゴールや自分の理想の臨場感を維持したり、妥協したくないという思いを高めるとどうなるかといえば、脳が無意識に、ゴールや理想の臨場感を自分の本来の臨場感として選択するようになる。そうすると、過去の自分の重要度とRAS機能によって作られたストコーマ(認知の盲点)とそれに伴うホメオスタシスやコンフォートゾーンから、新しいゴールや理想の臨場感によって、それまでの重要度が変わり、視点が移行するので、過去のストコーマが外れ、脳が無意識で機能して、その理想を達成する為の方法論を、創造的に勝手に探し始めるようになる。これが、「認知的不協和」を通じた「創造性」の話です。つまり明確なゴールの中で生きれる人は必然的に創造性によって問題解決できるようになっているという話である。■認知科学ブームとお父様の晩年の創造原理のみ言葉これは、認知科学のコアの部分を原理と照らし合わせて、簡単にまとめまたが、これをその手の認知科学系のコーチングセミナーに参加すると、その費用が、日本の祝福家庭の月の平均収入の2~4倍は余裕でかかる。しかし、この手のセミナーに山のように、自分を向上させたいという人が殺到しているのである。個人的には、その手の教材やその手の書籍を200冊ぐらい読み込んだので大体のポイントがわかるので、今回簡単にまとめたのだが、こういう潜在的対象者が日本の中にはまだまだいるという事である。非常に面白いのは、お父様の晩年の原理の説明と本当に多くの接点があるという事である。ここで、重要なことは、この創造性をフルに発揮させるには、自分が主人の立場に立つ、最初から最後まで自分が責任を持つというスタンスを貫き、目標達成に対してできない理由を絶対に組織や他人に責任転嫁しないという事だ。それ故、なぜ、この時代が主人であるとか、夜の神様を語られている時代なのかが本当に正しく理解する時代であると考えるのである。■主体的主人意識と責任と創造性の関連性この「認知的不協和」を起させる為の、目標設定の重要性は、現実とはかけはなれた目標や目的を持つことにあります。具体的には、過去の延長の目標であれば、脳がそれは過去の延長であるとすぐさま認識して、逆に現実に縛りつけると説明しています。様々なコーチングの派閥があり、様々な説明を受けてきましたが、私の中には、この認知科学からのアプローチが一番原理との接点が高いと感じています。つまり、家庭盟誓いの祝福家庭の創造理想世界の姿をいかに臨場感高く維持するかが、問題解決の最短距離であると考えます。自分を高めることに関心のない人は、誰かや組織に何かをして貰おうという隙間ができてしまい、結論としてそれが創造性を防いでいます。創造性と主体性を通じた責任感は非常に深い関連性を持っています。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 07 Apr
    • 認知科学的観点から見たカナン偵察

      ■脳の情報処理のエネルギー人間の脳は情報処理の関係上、見たものをすべて認識しないように作られている。全て視覚に入る情報を同時に認識したら人間は餓死してしまうという。これはどういう事かと言えば、人間の脳が全ての視覚に映るものを同時に認識したならば、ダムの発電ぐらいのエネルギー消費量が必要になり、人間の消化器官がそのエネルギーを作るのについていかなくなり、餓死するという話である。それぐらい脳を動かすエネルギーは膨大であるという事である。■脳の情報処理と認識の関係すなわち、脳は物事を認識する場合に意図的な手抜き作業を行うようになっているのである。それが以前説明した、RAS(Reticular Activating System)という脳の機能であり、自分にとって価値が低いと思う情報は遮断されるようになっている。先ほども説明したように、すべての情報を認識していると、脳の情報処理が到底追いつかないからである。つまり、私達が見ている世界というのは、自分が過去に重要であると認識した優先順位の世界観であるという事なのである。■同じ認識であるという錯覚インターネットで、キャッシュ機能というのがある。これは、過去のホームページを映し出す速度を高める為に、過去の記録を保存している機能なのだが、脳機能も全く同じである。脳の省エネの為に、過去の記憶を使って見ている場合が多い。つまり、今、見ている世界は過去の記憶を使っているのである。こうなると今日は昨日で、明日は今日という事になるのである。つまり、「事実を直視しなければならない」と鼻息荒く語る人がいるが、人によって事実は同じようには認識されていないという事である。AさんとBさんとでは、重要度がそれぞれ違う為に、同じものを同時に見たとしても、この「RAS機能」によって、必然的に遮断される領域が存在し、同じ事実を見たとしても、同じ認識をしている事とは全く別の話なのである。ちなみに、「RAS機能」によって見えなくなるもの、認識の盲点を「スコトーマ」と言う。重要度の違う人が議論しても噛み合わないのは当然であるという事がわかる。■街にあふれる妊婦の話例えば、結婚して妊娠した女性の旦那が、街に出て、最近は、妊婦の人が多いと感じるのは、それまでは妊婦がその人にとって重要でなかったが、自分の妻が妊娠した事で、自分の中の重要度が変わり、それまでは妊婦を見ていても認識しなかったが、妊婦を見ると即、認識できるので、街に妊婦が以前にもまして、沢山いると感じるのである。つまり、重要度が移行することで、「RAS機能」の遮断する領域が変わり、「スコトーマ」が外れたわけである。過去の記憶の重要度が自分の価値観や信念を築いているとするならば、私達は、未来を生きる人ではなく過去を生きている人である。現実問題、脳はそのように機能しているのである。■記憶の中の臨場感と重要度の関係性ここで重要な事は、現代の今を築いている過去の重要度はどのように作られているのかと言う事である。ここで、以前に私が書いた車酔いの話を思い出してほしい。私は幼い頃から、車酔いが激しく、一旦、車酔いするとヘドだけでなく胃液、悪い時には血まで吐いていた。何度も繰り返していたので、その過去の記憶がすぐに蘇る。車に乗り込むとエンジンもかかっていないのに、車の皮のシートの匂いを嗅いだだけで、車に乗っていないのに、車のドアに手をかけただけで、車と離れた距離なのに車そのものを見ただけで、吐き気がするようになった。これは、過去の最悪な体験が、五感と連動して再現して同様の状況を築くのである。残念な事に、脳は防衛本能的に働く傾向が強く、成功した時よりも失敗したことを、ポジティブな事よりもネガティブな事を優先して記憶するようになっている。さらには、脳は、臨場感の高いものを優先して記憶し、それが自分の重要度の優先順位に並ぶようになっている。善悪ではなく、臨場感が優先なのである。人間が堕落したために、霊的五感よりも肉的五感を優先する傾向が圧倒的に強いので、自分の信念を変えるには臨場感の高い経験が必要になるのである。そして、その臨場感は繰り返されながら、信念となり、それが自分の「コンフォートゾーン」になっていくのである。■カナン偵察で、スコトーマが外れた二人と外れない十人の話人間は、一旦、「コンフォートゾーン」が決定するとそこから逃れられなくなる。人間には肉体維持機能として「ホメオスタシス」という機能を持っているが、精神面においても同様の機能を持っている。これを「コンフォートゾーン」と呼んでいる。例えば、なぜ、イスラエル民族が奴隷生活から解放してくれたモーセにあれほど不満を抱いていたかと言えば、これを脳科学的に言えば、奴隷生活をしながらもその習慣に慣れてしまいながら「コンフォートゾーン」になってしまっていたからである。奴隷生活の不満を抱きながらなぜ、それが「コンフォートゾーン」になるかと言えば、いつ終わるともなくわからない奴隷生活の中で、毎日の奴隷生活が臨場感の高いものとなり、「コンフォートゾーン」になっていた訳である。もし、彼ら自身が、主人となり自らが、奴隷生活から決別したならば、自分自身の重要度が変わり「RAS機能」が働き、「スコトーマ」が外れ、「コンフォートゾーン」が変わっていたはずである。カナン偵察の際に、ヨシュアとカレブだけがいい報告をして、他の10人は何故私達をこんな処に連れてきたと不満を言ったのかは、前者は、奴隷生活から自主的に離れようとしたので、重要度の優先順位の変化によって「RAS機能」や「スコトーマ」や「コンフォートゾーン」が変わったからであるといえる。■組織の奴隷ではなく「コンフォートゾーン」の奴隷嘗ては、ガンガン頑張っていた人の大半が現在では統一運動評論家になっている理由は、どこまでも受け身であった事が大きい。ここに、なぜ、主人でなければならないのか、なぜ、フォロアーではいけないのかという根本的理由が存在する。お父様がなぜ、日本の婦人たちを、直接、教育され、重要度をもう一度、正されながら、海外宣教に押し出され、家庭においても嘗て、神様を求めて歩んで築いた信仰の原点を回帰させ、、神様を軸としたコンフォートゾーンへと導こうとされたという事である。■定着の2つのタイプ定着には二つの定着の仕方がある。10部族のような安住の生活を誰かに提供してもらうことを待っているフォロアー型の定着の仕方と、ヨシュア・カレブのように最初から最後まで自分が開拓していこうとする開拓型の定着の仕方である。後者でないと私たちは氏族メシアは難しいと考えられる。しかし、前者では、組織に文句を言いながら自分では責任を持てないフォロアー型の人生を送ることになるのである。なので、私はよく言うのだが、組織がメンバーを奴隷にするのではなく過去に縛られているメンタリィが問題であるという事である。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 01 Apr
    • 現代認知科学から見た「自我の再構築と創造目的」の話

      私達は、自分を自己紹介する際に、どのようにするでしょうか?自己紹介とは、自分をどのように規定するかという自我と深くかかわっています。しかし、自分を説明する時に、その実体は、名前や肩書き、好みなど、そのすべてが他者との関係からなる情報です。「名前は○○」「お父さんが誰」「お母さんが誰」「東京都港区出身」「出身校はどこ」「勤務先はどこ」「○○が趣味」といったような、外部との関係性によって成立しています。自分をいくら細かく定義しても、そこには自分以外のものしかありません。こう考えた場合に、自我は数学で言う「点」に似ています。数学の点とは、位置だけを持ち面積を持たない図形です。「この2本の線の交わったところが点だよ」と言うことはできますが、目で見える点は面積を持つため定義上の点ではありません。点も自我も人の頭の中にある概念であり、実在はしないのです。また自我は、自分にとって重要な記憶によって作られた評価関数という事もできます。お父様は、上下前後左右という話をよくされます。この話がなぜ、重要であるかといえば、自分を規定する自我を作っているのが関係性であり、これが自分の自我と位置を構成しているからです。さらに最も重要なのが家庭であると語られています。そしてこの詳細が四大心情圏と三大王権によって説明されています。夫婦や三代でどのような関係性を持つかによって自分の位置、つまり点が決定してそれが神様を中心とした自我の構成へと関係しているからです。宗教における出家などは、既存の人間関係や住んでいる場所や持っているもの等から完全に離れて、新しい関係性、すなわち点を決定することを通じ、新しい自我を再構築するように仕向けます。私達が入教生活してきた本質的意味も神様を中心とした自我を作り、本然の位置と状態に戻る過程であったと説明できます。しかし、家庭を持つ段階で、入教生活で培った兄弟姉妹の関係は、家庭出発によって特定の配偶者との関係の中で、四大心情圏の中で、さらに複数の関係が重ねられ、神様を中心とした多くの点を持つようになります。この点は、構造主義的な形で作られたものではなくどこまでも立体として存在します。通常、自分が誰であるかは、自分が大事だと思う項目を優先して定義しようとします。「東京大学を卒業した自分」より「昨日の朝食に納豆を食べた自分」が優先されることは普通はありません。実は人間の脳は、自分にとって重要なもののみを認識するようになっています。脳の情報処理の関係上、RAS(Reticular Activating System)によって、自分にとって価値が低いと思う情報は遮断されています。すべての情報を認識していると、脳の情報処理が到底追いつかないからです。RASによって見えなくなるもの、認識の盲点を「スコトーマ」と言います。つまり自分が重要であると考えていないものは、この「スコトーマ」によって、認識できないようになっています。それ故、「こんな事を許すのか?」とか、「こんな事を見逃すのか」という鼻息荒い議論が、滑稽な部分は、その人の重要であると考えている自己主張でしかないという事です。つまり、現在は、自分がすべてを認識できる現状の集大成でなく、自分が重要であると考えている過去の記憶の集大成であるという事です。この「スコトーマ」が外れない限り、議論がかみ合うわけがないわけです。原理を語りながら分派したり解釈で戦うのは、教義の問題ではなく、自分が重要であると考えているものを原理や神という言葉を使って戦っているのに過ぎないのです。原理を語りながらその人の行動が原理的でない矛盾は、どのようにして起きているのでしょうか?それは、原理よりも自分の重要としているものが勝っていて、原理を単に自分の重要なものを自己防衛する道具になっているからです。では、過去の生きず、未来に生きるのにはどのようにすればいいのでしょうか?コーチングでは、ここで、ゴールの決定という話をします。そのゴールに向かう中で重要度の優先順位を変えて、自我を再構築するという話です。これを海馬の書き換えとか内部表現の書き換えなど、コーチングにも様々な流派がありますが大枠はそういう話です。ここで、重要な点は、私たちはすでに人生の目的を知っているのではないですかという話です。それが、創造目的であり、人間側、祝福家庭側では、家庭盟誓であるという事ができます。しかし、自分の重要度よりも、創造原理や家庭盟誓の方が重要度が低い場合、これが義務感使命感となり、それが生活や習慣にまで落とし込まれないことになります。それ故、無意識で、原理の方を歪めようとします。あるいは、自分の代弁者を探すようになります。これが分派の本質的原因であり、これが無意識の中で行われるので本人たちは何が悪いのかが理解できません。重要な事は、創造原理の価値を知って創造原理に侍らなければなりません。つまり神様と共にいく創造目的が自らの人生の最重要になるときに、「スコトーマ」がずれて、創造目的達成に必要な内容が創造的に悟れるようになります。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 31 Mar
    • 原理は振りかざすものではなく自分で使うもの

      今、多くの組織批判をしている人の定番が、「原理を悪用している悪い幹部をとっちめないといけない。何を見て見ぬふりをしているのか」といういいぶりである。それで、登場するのが「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」の説明。「アベルに絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなければならない」というのが間違いというのは当たり前。そんな事は当然であり、当たり前です。それを、まともに人間的に信じている人は統一教会の中では、ローカルの原理を理解せずに位置にだけついているオバハンぐらいのもんでしょう。アベルではなくその背後の神様の意図を見るということであって、アベルそのものではないのは当然でしょう。そんでもって、これは教育してやらないといけないと鼻息荒く「そこで神様は完全に自己否定した。人間に完全に委ねた。それが神様の絶対信仰、絶対愛、絶対服従だ」と鼻息荒く力説しておられます。でも、ここで重要な事は、神様は、アダム・エバに結果を委ねたのではなく、創造原理に委ねた訳です。委ねる対象は人間ではなく創造原理に委ねたのです。正確に言えば、神様が自分で自己否定したのではありません。神様が創造原理を立てた後、神様もまた創造原理の対象の側に立ったのです。この違いがわかりますか?なので、お父様は、神様も人間も、創造原理の前には平等であると語られているのです。なので神様が兄であり、天使長が弟なわけです。家庭盟誓には、神様の愛を中心にとは語られていません。真の愛を中心にと書かれています。さらに、怨讐サタンの言葉も登場しません。存在が中心ではなく関係性が主体なのです。単純に「アベルに絶対服従しない」といけないなんて、考えている原理主義的祝福家庭は、すでに少数派だと思います。それでも、「まだわかっていないようだ。こんな風にしたら、組織がカルトになってしまう」と御心配され、「如何に、韓国人があくどい」のか、「如何にお父様が物事を知らない、歴史も知らない、ビジネスも知らない、何も知らない、妄想してはいけない」と訴えておられる老兵の退役軍人がどこかにおられるようですが、その思考も完璧に遅れているんですよ。教義論争して「どちらが正しいどちらが正しくない」とやっておられるようですが、どっちの教義論争が勝っても負けても創造原理は存在し、創造原理どうりに生きようとした人が、摂理の主流になるんですよ。だから明確に知っておかなければならない事は、「第四次アダム圏のみ言葉」にあるように、第四次アダムは顕進様でもなければ、亨進様でもなく、すべての祝福家庭を示す事を理解することが重要なんですよね。「日本は、本当に旧約だな。では、私が、新約を教えてしんぜよう。」と語る人が、何か、新しいように見えますが、そうではないですよ。そもそも、神学なるものは、イエスの弟子が考えだした弟子の神学なんですよ。旧約、新約、成約と三点セットで考えるのですが、新約と成約の間には大きな隔たりがあります。それは、血統が違うということ。この血統というのは、また、反体制の方々が喜んで使う言葉なのですが、血統が同じというのは結局、同じ家族ということですよ。弟子と家族の違いです。血統を語りながら弟子の視点じゃ、話にならんでしょ。私には、だれが正しいかと主張しながらその支持する真の家庭や御子女様にやはり丸投げする体質は変わっていないのだなと考えるわけです。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 24 Mar
    • 最後は、結局、自分に対する問いかけでしょう。

      結局、私達、祝福家庭は、最後は、①誰の為に歩むのか?②何の為に歩むのか?を自分自身に問いかける事になるのではないでしょうかね。シンプルですよね。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 23 Mar
    • 神の視点と人間の視点を考える

      ■自然界の構造神様は、この宇宙を創造する際に、創造原理に従い、主体と対象に分けて、それが授受作用によって、正分合のプロセスを経て、より次元の低いものから高い存在へと、その繰り返しによって、創造している。例えば、自然界の構造は、エネルギーから素粒子に、素粒子から原子に、原子から分子に、分子から物質へと創造原理を目的として、多段階的に形成されている。自然界の構造は、このように正分合の流れの中で、創造原理の自律性と主管性によって、構築されている。しかし、人間社会の中においては、差別や戦争などが絶えないのは、この正分合の分の際に、対立関係になりやすいという責任分担の問題が残されているからである。■自然科学に善悪論はないこれは、復帰原理的に言えば、アベル・カインであるのだが、自然科学を見ずに社会学的にこの現象を見れば、マルクスが説明したように、これがあたかも正反合のように捉えられるのも、闘争的な歴史が継続してきたという事実が多いからだろう。しかし、創造原理を理解している立場から見れば、これは、本来は自然科学同様、人間社会の中でも正分合でなければならない。しかし、そうできない最も大きな原因は、アベルカインを構造主義的に考えてしまい。同列のレベルの善悪議論で解決しようと考えているからである。それではだめなのである。■原理講論は、低次元から高次元への説明創造原理によると、この自然界は、創造原理に従い、正分合の繰り返しによって、低次元から高次元への多階層によって構成されている。原理講論の創造原理の説明は、神様が、万有原力を通じて科学でいう所の4つの力を分化しながら、物質、植物、動物、人間などの高次元的な存在を正分合作用の時系列の流れから説明しているのである。つまり、二性性相、万有原力、授受作用、正分合作用、四位基台、三大祝福という時系列を軸にした一連の創造原理の流れである。しかし、ここで理解しなければならない事は、これは、創造後の神様の創造の流れを時系列を追って説明したものにすぎないのである。これが、原理講論の説明である。■神の創造の目的とその為の手段これまで何回か記事でも書いてきたのだが、神様が創造に至る前の思考と創造の流れは、実は、逆なのである。なぜならば、神様は人間と喜びを共有するという一点が創造の動機であった事に常に立ち返らないと私達は、いつも目的と手段が逆転してしまうのである。なぜならば、目的は、喜びの共有であって、極論を言えば、創造の行為そのものも、目的を得るための手段であるという見方さえ理屈としては通るからである。■夜の神と昼の神喜びを共有するために、神様は思考した。喜びを共有するためには、似姿が必要であり、その為には、自らを実体展開した対象が必要であり、その為には、神自身は、創造前においては、本性相と本形状、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体である。しかし、創造後においては、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としても存在している事が理解できる。前者は、創造前の神様であり、後者は、創造後の神様の説明であると考えればわかりやすい。■神の思考と創造の順番の関係性思考は重要度の優先順位であるが、それを形にする創造の段階では、時空の概念が入るので逆になる。ここで、重要な事は、創造主の思考と結果としての被造物の結果は、主体と対象になるので対極になるのである。親の視点と子供の視点が違うのは当然であるのと同じである。喜びの共有は、神様と人間が必要であり、それぞれの見方が存在する。前者が原理本体論で、後者が原理講論で説明されている。前回も説明したが、人間と神様に至る階層には、横的八段階では、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神に至るまでの段階が存在すると説明されている。個人から神に向かう視点は人間側であり、その逆は神様である。こう考えた場合に、神様の視点は、個人の前に家庭が先に入るのである。つまり、神様の思考は、これは、神様は、喜びを共有するという命題の後に創造原理を決定したのだが、それを具現化する際には、神様のビジョンは、創造の時系列とは逆なのである。創造原理、天使長、アダム、エバの順番に神様は決定、創造されたのであるが、思考の重要度の順番は、間違いなくその逆になっていたはずなのである。■神と同じ視点に立つという事の意味では、神様と同じ立場に立てなかった事が堕落であるとするならば、神様と同じ立場に立てないと完成できないことになる。そこで、正分合作用を考えた場合、創造では、小さなものから大きなものへと創造が四位基台によって作られているのだが、神様の最初からの最終目的は、天宙大家族だったわけである。つまり、より高次元のものからより低次元へと神様の視点は流れているのである。こう考えた時に、神様と同じ思考をするということはどういうことかといえば、一つ上の次元の立場から一つ下の次元を見るということである。つまり、視点を一段階高いところから自分の段階を見るということである。従って、正分合の分の立場に立つのが復帰原理ならば、その上の段階から分を見るということである。神様から見れば分の中にある主体と対象は、分として両方を一つとして認識されているのである。これが、復帰原理においては対立関係としてアベル・カインの分化された責任分担ばかりが強調されて空手の約束組手的な役割分担ばかりが見えてしまうのである。アベルとカインを一つの摂理、一つの家族として認識する事が重要である。■神の視点と氏族メシアの関係性 この事は、私たちが氏族メシアを考える場合に非常に重要な認識でもある。しかし、もし自分が氏族メシアであればという大前提で物事を考えないとこの観点の言わんとする本当の核心は捉えることはできないだろう。私がゴールから考えないと絶対にそのゴールは果たせないといっているのはそういう意味である。構造主義的に部分の延長上に地上天国という全体が登場するということは絶対にありえないのである。なぜならば、神の思考と被造世界は、現実は鏡のように逆になっているからである。■認識が先で存在が後、構想が先で創造が後信仰しない人には神様はわからないというのが実は原理の核心なのであるが、これは、認識が先であり存在が後であるという事でもあるからである。統一運動にかかわっている大半がこのことが理解できていないので自分で袋小路に入っている。現実の情報を得れば得るほど混乱していくのである。それでは答えが出ないのである。それは、単に同次元の矛盾と混乱を分析しているにすぎずジャーナリズム的な思考であるからである。目的は、喜びの共有であって、善悪論ではないのである。■そのパラダイムはすでに古い毎日、何がどのように悪かったと持論をジャーナリズム的思考で数年書き続けている人は過去の奴隷である。過去が現在の連続性であるという思考である。それでは、未来に地上天国など完成するわけがない。なぜならばパラダイムが違うからである。昔のパラダイムで本然のパラダイムに至る事は出来ない。成約時代の後に後天時代が到来したのである。どのパラダイムで物事を認識しているかが重要である。パラダイムシフトは一回ではないのである。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 22 Mar
    • 創造原理的思考と構造主義的ジャーナリズムの認識の違い

      創造原理の四位基台は、自分を主体として対象を見る時に、①自分は、その人をどのように見ているのか?②相手は、どのように考えているのか?③神様は、どのように相手を見ているのか?④神様は、どのように自分を見ているのか?⑤神様は、どのようにその関係を見ているのか?などの複数の視点が存在する。これは、視点が変わって人を連れてこれるようになった段階で、対象者をどのように見ていくのかという部分と関係している。このような神様・主体・対象の一体化を中心として結果としての合の部分を導き出すというのが伝道の和動であると考えているが、こういう事を現場で教えている事は、ほとんどないようである。やはり、創造原理で教育しないとね。次に、祝福家庭が、なぜ、ジャーナリズム的になるのか考えてみたのだが、これもまた、喜びを共有する場合に、神様と人間の見方、原理本体論的な見方と原理講論的な見方があるのと同様に、上記のようにどの視点で物事をとらえようとしているのかという視点の認識が重要であると考えられるのである。例えば、個人・家庭・氏族・民族・国家・世界・天宙という横的段階が存在する。周知のように、これは、八定式でも明確に説明されたように、最終段階の八段階は神様である。これは、人間から神様に向かう方向性、つまり、人間が神様に向かう段階である。人間の視点から見れば、上記のようになるのだが、当たり前の話ではあるが、神様から見れば逆になるのである。こう考えた場合、原理本体論でも明確なように、神様も家庭がなければならないので、家庭が創造の基礎単位となる。それ故、私達、祝福家庭は、家庭を一つの単位として家庭盟誓を、毎日誓っているのである。つまり、私ではなく、私達なのである。こう考えた場合、誰が正しい誰が間違っている個人の議論以上に神様が最初に見るのは、家庭であって個人ではないのである。そう言う時代圏が到来したので人事も夫婦や家庭単位で行う時代になったと王権時代に語られたことがある。喜びがあれば、個人の喜びでなく家庭の喜びであり、悲しみがあれば、個人の問題ではなく家庭全体の悲しみなのである。構造主義では責任分担が空手の約束組手のような認識であるが、有機体という概念から考えれば、一部の悲しみは全体の悲しみなのである。そう考えると、家庭のみならず、国の概念も、摂理国家という家庭モデルで摂理されていた国々もまた国を超えた家族の概念があれば、ステレオタイプのジャーナリズムレベルの嫌韓で、論壇の陣を張る事の愚かさを感じると思うのである。最後は、どの視点で物事を認識しているかに集約されるのである。昔は、基準が高いとか基準が低いとか、霊的基準を勝手に判断する意味不明な教会用語が流行ったが、ぜひ、基準ではなく、視点という言葉を教会の中で流行らせていただきたいと思う。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 18 Mar
    • 神様は父か父母か?というツマラナイ議論に関して

      創造原理では、神様を説明する時に以下のような説明をしている。>上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。これを確認すると、神様は、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体と説明されている。これが、神様が創造する前の状況であり、これを夜の神様と呼ぶ。その後、神様は、被造世界を創造される。これが昼の神様である。神様は、まず、創造原理を作られる。そして、その創造原理を信じ、愛し、服従して創造を実体化される。これが、神様の創造原理に対する絶対信仰、絶対愛、絶対服従であり、総称して神様の創造性という。その結果、具体的な、被造世界の創造が始まる。原理講論では、神様と被造世界との相対的関係性として、性相的な男性格主体として立たれていると語られているのである。つまり、夜の神と昼の神の二側面を説明しているのである。原理講論では前者を強調し、救援摂理の原理観や原理本体論では後者を強調しているのである。これは、喜びを共有するという創造原理を人間側と神様側の視点の違いである。これも前回の記事で説明したように、選択ではなく共有である。構造主義的思考では、選択になってしまうのである。この事がわからなければ、組織論の正当化ありきの、神様は父母なのか父なのかという頓珍漢な議論をすることになる。従って、完成した際には、神様と真の父母の二性が一つになる形になるわけである。これが、天地人真の父母の位相の意味である。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 17 Mar
    • お母様の無原罪説議論に対する私見

      私が、「お母様は無原罪かどうか?」と聞かれた時、どのように答えるかというと、「今までのパラダイムであるならば、原罪はあるでしょうね。しかし、現在のパラダイムから考えるならば、もう少し判断は待った方がいいかもしれません」と答えている。まず、お父様の路程を考えた場合に、以前も述べたのだが、先天時代と後天時代では内容が変わっているのである。これは、原理本体論の説明でもあるように、それまでは修練であり、堕落人間を対象にした指導であり、原理本体論以降が教育であり、本然の人間を対象にしたものであるという訳である。例えば、先天時代は、メシアに関する内容は、16歳の時にイエスが現れて、第二次世界対戦の前に原理を解かなければならず、一番難しかったのが堕落論でその為に、日本の水商売の女性と話しながら悟った的な内容が指導されていた。しかし、原理本体論以降では、3歳で東西南北を、4歳で堕落論を直接、神様から教育を受けていたと語られている。つまり、16歳に出会ったのは神様であり、イエス様ではないと語られている。この際に、李ヨハネ先生に、お父様は、あなたは私が堕落世界で育っていたので、自分とそれほど変わらないと思っていたでしょうと指摘された。その後、李ヨハネ先生は激しく後悔され、のちに全ての責任者は偽物であると話されるようになった。2007年に李ヨハネ先生と直接話した時にも、同様に、その事を強調されていたのは、その影響が大きいのではないかと考えられるのである。ではなぜ、このような違いが起きているのかは、時代圏と祝福家庭の位相の変化によって、私達は同じ視点でしか神様と御父母様を見ているのだけれども、御父母様は、三大祝福の勝利により、長子権、父母権、王権という位相の変化によって、御父母様は、真の子女、真の父母、王の王として、祝福家庭を弟子、子女、国民と見てこられたわけである。王権時代に入り、先天時代から後天時代、つまり、蕩減復帰時代の終焉に伴い、解放と釈放の時代を迎えている。つまり、神様と真の父母様の責任分担が解放され、堕落の痕跡すらも残らない釈放の時代を迎えたのである。しかし、その時代圏を理解するには、昔のパラダイムで見ては絶対に理解できない、見えない、認識できないという事実が存在するのである。例えば、御父母様は、2000年以降に行われた入籍修練会では、天一国という実体的天一国が地上でまだできていないので、天一国を示す、真の家庭の中に祝福家庭を入籍させたと語られている。つまり、それを認識しようとする人にはわかるが自らそれと関りを持とうとしなければわからないのである。例えば、釈放という言葉は、堕落の痕跡そのものも残さず、堕落の概念すらも存在しない状態である。と説明された。天一国に入るならば、堕落という概念を超えない限り入れないと言う事である。清平役事に関心がある人は知っていると思うが、210代先祖解怨・先祖祝福の上に実はもう一つの役事が存在する。それは、先祖が罪を犯した痕跡すらもなかった事にするというもので、これは通常ではなく、つつじ祭とか大きな勝利の区切りに行われていたものである。つまり、釈放の概念に非常に近い内容なのである。こう考えた場合、これは、影がないと語られた正午定着という内容と同じである。原理本体論の最も重要な点は絶対性の内容である。それとともに理解しなければならないのは、創造目的を人間の側から説明したのが原理講論であるのに対し、神様の側から説明したのが原理本体論であり、これは、論理的思考の点で考えれば、原理講論は、帰納的な説明と原理本体論は、演繹的な説明であると考えられる。これは、パラダイムが変わったという見方もあるが、人間からの視点も存在し、神様からの視点も存在しているのである。なので、これはパラダイムが変わる。すなわち、選択ではなく共存なのである。つまり、A->B->cという三段論法のような形のような部分が全体を積み上げる一方向の説明では両者を一度に説明できない。これを説明しようとするならば創造目的の根源である喜びを共有するためという根源に帰らなければ説明できないのである。つまり、前者を構造主義というのだが、部分の総和が全体と考えるのだが、思考が平面なので別の問題が起き、それまでの仮説が通じなくなった場合、その考え方を根本から変えないと解けない問題が存在するようになる。そのためのまた別の思考方法で再びA´->B´->C´といった別の積み上げの中で別の仮説を作らなければならない。これをパラダイムシフトという。今までの思考法とは別の思考法で説明できなくなった問題を解決するのである。これが、通常の学問のすすめ方である。では、原理本体論が登場し原理講論が必要なくなったかといえば、そうではない。創造目的というのは一つであるが神様と人間の見方が違うだけなのである。この本質的な意味が理解できないと、超宗教活動などできるわけがないのである。それぞれの宗教は神様をどのような立場から見ているかという立ち位置の違いでしかないからである。こういった部分が全体を説明するといった構造主義的思考の時代はすでに終わりを遂げているのである。では、どのような思考でなければならないかといえば、部分の総和が全体という一方向ではなく、全体と部分が相互関係で成り立っているという思考法である。原理講論では、人間を小宇宙にたとえ、天国は、そのような相互関係のような世界だと説明しているし、個性真理体は、神様と一対一の関係を築く部分と全体の相互関係を解いているこれは、構造主義ではない。このような部分と全体が相互関係によって成り立つ思考法の事を認知機能的な思考と呼ばれている。原理では人間の体や宇宙や神との関係や天国をこの認知機能的な考え方で説明しているにも拘わらず、原理の説明の方法が、構造主義的な創造ー>堕落ー>復帰のようになっていたり、原理講論か原理本体論かという選択的な見方になっているのである。これが、組織論の善悪論とも深くかかわっているのである。原理本体論は神様が創造目的をどのように見ているかを考えれば、神は喜びを考えた場合、一番最初に考えたのはエバー>アダムー>天使長の順番であったと私は考えている。それが創造の段階では逆転しているのである。この前後、先後が、時空という実体を作る創造の際に時系列ゆえに逆転している。それ故、この世の認知では過去ー>現在ー>未来となっているが思考は通常そのようになっているのであるが本来は逆なのである。これに引っかかったのが天使長であると考えるのである。それ故、神様の結論はエバである。そう考えた場合、エバが神様の前に立つ場合、堕落したエバではなく堕落の痕跡もない釈放されたエバとして神様の前に立つことが必要であると言う事である。これは、神様のサイドで考えなければ理解できない発想である。そういう意味で、既存のパラダイムでは原罪を持ったお母様という説明ができても、それが神様が目指す原理本体論の世界観とどのような視点の一致を見出すのかは私から見れば全く無関係なのである。なので、現在の私のお母様の無原罪論に関する回答は最初に述べたように、「今までのパラダイムであるならば、原罪はあるでしょうね。しかし、現在のパラダイムから考えるならば、もう少し判断は待った方がいいかもしれません」となるのである。まあ、何を言っているのかさっぱりわからないという人が大半だと思うがわかる人はわかってくださいと言う事である。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 16 Mar
    • 組織批判しながら組織枠を超えれないという矛盾

      「バリバリさんは、お母様は、無原罪であると信じているのですか?」と教会でも、メールでも、いろんな場所で食口に聞かれることである。今、そのネタがブログ村では、旬のネタである。なぜならば、私は、お母様が、ラスベガス摂理を継続しておられるのは、お父様の願いであり、氏族メシアと南北統一と平和国連摂理という氏族、国家、世界という実体基盤を造成するという摂理的骨子に関しては、明らかにお父様が行われてきた事を踏襲しようとしておられると、ブログでも某SNSでもお茶会でもローカルでも一貫して主張してきたからだろう。組織論が好きなブログ村の座標軸では、私は、お母様支持であるので、つまり家庭連合支持であるという真の家庭と組織が一つのパッケージとして統一運動の思想区分に勝手に振り分けられてしまうわけである。顕進様ならUCI組織、亨進様ならサンクチュアリ協会という振り分けと同じである。これは、真の家庭と組織論を混合するきわめて頭の悪い振り分け方であると考えるのである。組織は、組織の長と完全に一つになっていると主張する。UCI組織の構成員もサンクチュアリ協会の構成員も全く同じ事を私に熱く語ってくれた。この組織の中で自分のアイデンティティを確認したり、生きがいを見つけようとする一種の組織帰属の病魔はいつになったら治るのだろうか。もしかしたら不治の病なのかもしれない。どの組織を見ても同じである。もともと同じレベルの人間が右に行ったり左に行ったりしているだけだからだ。本人達が船を乗り換えると言っているぐらいだからだ。それ故、パラダイムシフトなどと叫んでいるブローガー達が、「いや、あなたはまだパラダイムシフトしていないでしょう」という、荒野路程さながらの言行がブログの中で目について仕方ない。彼らは、説明したり、自分たちが正しいと感じていることを何年も言葉を変えて書き続けているだけだからである。しかし、何年も毎日ブログを更新していると書く技術は上達する。まあ、それぐらいだろう。その代償が過去の奴隷に成っている事が理解できていない。それで、現在、私は、お母様と家庭連合の奴隷となっているという座標軸なのだろう。ひと昔は、米国事業体にいたので、顕進様とUCI組織の奴隷というカテゴライズのようだったが、仁進様とラビングライフミニストリーを週末に手伝っていたので、組織論者のデータベースにはそういうカテゴリには入らないので、「あなたは、国進様が正しいと思うか、顕進様が正しいかと思うか」と地元の教会長が直接私に確認しに来たほどである。この場合、仁進様と国進様は、同じサイドに立っているとこの教会長の頭のデーターベースには区分けされていたようだ。私は、米国事業体とラビングライフ、つまり顕進様と仁進様の両方を手伝っていたので、彼のデーターベースには、そのような区分けがないので、彼の頭の中で、データベース上で、エラーが発生し、確認に来たというご苦労な事だった。それで、私は、「あなたは、国進様が正しいと思うか、顕進様が正しいかと思うか」という質問に、「私は、お父様側だよ」と答えると、「いや、そういうことじゃないよキミ」と言い出したので、もう少しラリーを楽しみたいと思ったが、時間の無駄と感じ、その生産性の全くない会話を適当に引き上げた。結局、私は、両サイドの、ダブルスパイの様な称号を頂くことになった。そして、120日世界指導者教育の時が来て、米国教会は、必死で、韓国に送る人材を探していたが、米国から院卒で韓国に120日間送り込む人材など簡単に見つかるはずもない。結局、米国事業体から米国の地元の教会に電話が言って、私が参加する旨が伝わった。私をダブルスパイ扱いした教会長は、天からの授かりもののような感じで、明日からすぐ行ってくれと言い出した。私は、いや、準備があるので三日後だと説明した。自分で準備できずにこちらに振っておいて、偉そうにするんじゃないよという話である。会社を辞めていくのになんだその態度はと感じるのは当たり前だろう。当日、私は、車で空港に向かう途中、教会長から電話を受けた。参加費は、米国事業体からではなく、教会が出したいから教会に寄ってくれと言い始めた。飛行機出発の本当に直前である。私は怒る気力もなくなり、「いやちょっと電波が悪くて聞こえません」と言って電話を切った。陳腐な実績の奪い合いである。ちなみにこの教会長は、それほど忠誠を尽くした組織の長からしばらくして解雇通達を受けたようだ。本人から見れば衝撃だったであろう。要するに本人の視点とこの組織の長との視点が大きく隔たっていたからだろうが、本人は目が点になったことは容易に予想できた。こんな、おバカな連中を指導者として扱わなければならない、お父様を非常にかわいそうに思いながら、私は、韓国行きの飛行機に乗った。こういう組織論の餌食になった指導者はおそらく一人や二人ではないと感じるのである。お父様が、かつて、南北統一の担当食口に、「あなたは、国や組織を考えているのではないか?南北統一は、家族を考えないとできないよ」と語られたそうだ。つまり組織論と家族文化は時として大きく対峙するのである。なので、組織がどうだこうだと落胆する必要は全くない。まずは、神に誇れる家庭を築こう。人が組織を作るのであって、組織が人を作るのではないからである。私たちは唯物的になってはいけない。神様を見よう、創造原理に従おう。そうすれば何の葛藤も障壁も消えるだろう。長くなったので、私のお母様の、無原罪の意見に関しては次回書くことにする。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 15 Mar
    • 組織論でしか物事が見えなくなった自称奴隷の人達へ

      基本的に、私は、顕進様の事が嫌いではない。しかし、なぜ、あれほど真の子女の中で袋叩きに合うのか多少の疑問を持っている。しかし、それは、当人同士の問題であるので、それを知ったかぶりして、こうだああだと言うのは私の範囲ではないと考えるのである。お母様との関係においてもそうである。同様に、私は、亨進様の事が嫌いではない。しかし、昔の亨進様と今の亨進様の言行には多くの隔たりを感じる事も事実である。しかし、どのようにして人の心の中をすべて知ることができるだろうか。また、子女様間同士の中で国進様と行動を共にしている理由があるのだろうが、それは、私の関心の外にある。日本人は、意見が違うとその人を嫌ったり、きっと嫌っているのだろうとすみ分けをする。坊主憎ければ袈裟まで憎いというものだ。実は、私は、それほど日本人ではない。なので、今でも仁進様に対しては悪い思いを持っていない。他の御子女様に対しても同じである。私が本当に言いたい事は、祝福家庭の見る側の点である。大半の人が真の家庭と組織で全てが決まると考えているので、葛藤が大きい。その理由は、自分の人生を真の家庭と組織のために捧げてきたと勘違いしているからだと感じている。私は、そうではない。自分は神様と自分の為に歩んでいるのだ。これは、組織が公的で、祝福家庭が私的と考えている人には絶対理解できないだろう。個人的に、ある御子女様と真の家庭の事に関して話を持つ機会があった。非常に率直に、一人一人の子女様に対する思いをあからさまに、語って頂いた。だからと言ってその御子女様は、誰一人として実の兄弟姉妹を兄弟姉妹ではないと言われない。当たり前である。単なる兄弟姉妹の考えの違いであるからだ。私は、それが非常に腑に落ちている。なので、例えば、その御子女様に対して、「私が代わりに、それぞれの話を伝えに行きましょうか」等と話したとすると、当然、本人は喜ぶはずがない。こんな事は、当たり前だ。それは、自分の口があるし、会おうと思えばいつでも会えるからだ。世界の七不思議でも何でもない。それは、当たり前である。それは、当人同士の関係だからである。私は、真の家庭の中で、誰かが代弁しないと、言葉が、伝わらないというならば、それはすでに家族ではないと考えている。こんな事は、当たり前である。しかし、どんな人間関係であっても伝わるのには時間がかかる場合がある。弟子は、自分を中心に考えているので、それが待てない。自分がすっきりする事が第一義であり、自分の善悪で物事を図るからである。美辞麗句を並べ立てても自分が優先なのだ。それは、聖書の歴史が物語っている。しかし、家族は違う。家族はどんなに時間をかけても待ってあげる事が必要なのだ。神様が、人間を僕と見ていたら、心情的に、数千年も待てたであろうか?お父様は私達の成長をどれだけ待たれただろうか?結局は、自分達の本来のやるべき事を棚上げして、それを真の家庭と組織の責任にすり替える事が本当の課題なのだ。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村2016年 3ヶ月連続で更新中

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  • 14 Mar
    • サンクチュアリ教会は、偽善者の集まりなのか?と書いた本当の意味

      基本的に、私は韓国産のSNSなどから批判ソースを引っ張ってきて、ブログにそれを張り付けることで、数年間を費やすような愚かな人生を送るつもりはありません。なので、基本的には、私のブログは、自分で、直接見聞きしたり体験した事を中心に書いてきました。ここ数回、サンクチュアリ協会の世界宣教本部のエルダー氏の発言に対しての内容を取り上げてきました。ブログ村で、お母様批判が大半の中、珍しかったのでないですか?(笑)私は、サンクチュアリ協会をずっと見てきました。語られる内容も見てきましたし、そこに集まる人たちの行動も見てきました。結論からいうと、結局、組織が腐敗したので新しい組織を求めて船を変えたのだなというのが私の結論です。なので、乗り換えた船が気に入らなかったら別の船を探す旅人なのです。日本サンクチュアリ協会の公式ホームページを見て救命ボートと書いてありました。沈むタイタニック号ではなく沈まない船に乗り換えましょう。そのために救命ボートです。これは、私の説明ではなく、日本サンクチュアリ協会の説明です。つまり、沈むタイタニック号は家庭連合であり、沈まない船は日本サンクチュアリ協会ですよね。なので、沈まない船がもし、沈むようなことがあれば、別の船を探すのですよね。いつから私達は、組織の中で自分のアイデンティティを見出すようになったのでしょうか?祝福家庭とは一体何でしょうか?組織の在り方を考える人は非常に日本の祝福家庭の中にいるようですが、祝福家庭とは、本来、◎◎なので、自分は、このように改めたとか、このように生活を変えたとかという話はあまり聞きません。このように考えるのは私だけでしょうか?いつから祝福家庭は、組織に定着するのようになったのでしょうか?例えば、2010年の世界指導者教育に私は参加しましたが、そこで、亨進様は、なぜ、統一教を作られたのかを説明されました。これは、亨進様を支持する人はしっかり聞いてくださいね。この時に、亨進様は、祝福家庭は統一教会を隠している。統一教会を恥ずかしく感じていると語られました。なので、堂々統一教会を隠すのであって、これが、祝福家庭の信仰を弱くしていると語られました。そして、雑居ビルに、様々な関連団体の名前が乱立して、統一教会を堂々と明かしていないことが問題であると語られました。私は、そのとき、二つの事を感じました。一つは、非常に純粋であるなと感じました。正々堂々と統一教を明かしていく事で自分達の信仰を証して行くという事です。もう一つは、なぜ、お父様が家庭連合を作られたのか、なぜ、摂理機関をお父様が作られたのかという本意がわかられていないのだなと感じました。この二つが私の率直な感想でした。それでも、そういう純粋な思いは、多くの祝福家庭の心を揺さぶりました。今の祝福の数が何よりもそれを物語っているでしょう。しかし、残念な事があります。最近、亨進様は、サンクチュアリ協会の名前を出さずに、家庭連合の中で隠れて活動してもよいという旨を承認されています。どうどうと証しをせずに、隠れて信仰を持ちなさいというわけです。私には、堂々と統一教会を証しすることを強調された亨進様とは同一人物のようには思えません。こういう場合、サンクチュアリ協会のメンバーに聞くと、いや、そういうことは亨進様は言われていません。それは、メンバーの責任でやっていますと語ります。これは、今まで私がサンクチュアリ協会を見る中で大きな特徴でもあります。例えば、FaceBookのコミュニティで、これは、公式的なサイトではなく、有志のサイトであり、文責はすべて私にありますと語り、例の滅茶苦茶な同時性の講義を韓国人が公式講師としてやっているビデオが張り付けてあります。これは、亨進様が、そういっているのかと聞けば、これは、公式ではないと語ります。しかし、亨進様御夫妻や国進様御夫妻も参加されて、ご本人も数名をそのコミュに誘われています。亨進様は、礼拝の中で、天正宮の中には、御自身の諜報活動をサポートしている端末が自分に情報を与えてくれていると、誇らしげに、語られています。要するに隠れサンクチュアリ協会信徒です。私は、さすがに引いてしまいました。あの純粋な亨進様はどこに行かれてしまったのかと。私は、そういうのを見るにつけ、祝福家庭自身が、御父母様の時と同じように御子女様はこのようであると勝手に自分の理想を当てはめているのではないかと考えるようになりました。例えば、亨進様は、お母様を心から愛しておられますと多くのサンクチュアリ協会の人が私に説明してくれます。私もそう信じたいです。しかし、エルダー氏は、韓氏オモニなどが「死んだ亭主を好む女性」の典型のように思えます。と発言をしました。この内容は、ブログ村の記事ランキングでも上位になっているので多くの目に留まっているはずです。これが、愛している女性に対しての発言ですか?サンクチュアリ協会のスタンスは、みんなこんな感じなのでしょうか?同意ですか?そうでない人は、なぜ、これは、おかしいと言わないのですか?いうとボートから降ろされるからですか?それとも、エルダー氏のブログでのコメントで、サンクチュアリ協会の人たちが、2月13日までに祝福を受けた人とそのあとでは格が違うので、今は、波風を立てないでおこうというわけですか?先行者特典を損なわないためですか?それとも、亨進様に自分が誤解されないためですか?しかし、そのままにしておけば、亨進様のほうが誤解されると思いませんか?要するに問いたい事は、あなたの信仰の根底には、本当に神様は存在するのですかという事です。以前、顕進様が、真の家庭の事は私がするから、お母様に関してはあまり騒ぐなと語られたと聞きました。そういうブログの記事もありました。しかし、顕進様を自称サポートするという人は、変わらず、批判を高めていきます。あなたの正義と御子女様の正義は本当に同じですかという質問です。私は、これを子女と弟子の違いと考えています。あなたは、弟子ですか?それとも子女ですか?パラダイムシフトを語りながら、弟子であるならばそれは恥ずかしいことであると思いませんか?声を上げないとすべての御子女様は、すべて、ダブルスタンダードか裸の王様に外からは見えるのです。これに葛藤してあなたは組織を出たのではないですか?最後は、組織ではなく、私は何者か?祝福家庭とは何なのか?という問いに集約されませんか?これが、私がこのブログで一貫して書いてきたことです。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村

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  • 13 Mar
    • サンクチュアリ教会は、偽善者の集まりなのか?

      多くのサンクチュアリ教会の会員は、亨進様は、お母様を心から愛していると信じているのだろう。私もそれを信じたい。では、サンクチュアリ教会の世界宣教本部長のエルダー氏は、お母様を、「死んだ亭主を好む女性」の典型と呼んでいる。>私も書いてから「あれはまずかったな」と思っていました。ご指摘ありがとうございます。これからは注意します。サンクチュアリ教会の人は、この対応を見て何も思わないのですか?沈没する船から別の船に移行してそれで終わりですか?今まで幹部の対応に不満を持ってきたのじゃなかったんですか?それで、本当に何かが変わるのですか?残念ながら、組織が変わってもあなたたちは何も変わらないでしょう。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村

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  • 12 Mar
    • サンクチュアリ教会世界宣教本部長の謝罪発言

      サンクチュアリ教会世界宣教本部長が、真のお母様に対して、「死んだ亭主を好む女性」の典型の発言に対して、謝罪のコメントを出された模様です。以下、参考にしてください。>私も書いてから「あれはまずかったな」と思っていました。ご指摘ありがとうございます。これからは注意します。一体、何が、どのようにまずかったのでしょうか?これから、何を注意されるのでしょうか?コメント欄ではなく、新しい記事で、今回の発言で、何がどのようにまずかったのか具体的かつ明確な説明を希望します。何でも答えますという組織を代表する世界宣教本部長ですよね。他の団体の過ちを指摘するならば、責任者として、どのように責任をとるのか、具体的な姿勢を見せてください。結局、組織論の枠を超えてないんだよね。しょーもなー。御子女様の看板掲げるなら、自分の発言に責任を持ちなさいよ。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村

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  • 11 Mar
    • 「死んだ亭主を好む女性」の典型発言に関して

      宗教の自由、言論の自由があってもいいし、憲法では、それは、保証されているだろう。以下は、サンクチュアリ教会世界宣教本部長であるエルダー氏の発言である。>韓氏オモニなどが「死んだ亭主を好む女性」の典型のように思えます。私は、基本的スタンスとして、どこの組織がどうこう言うつもりもないし、つまらない組織論を語るつもりもない。素朴な疑問として、「一体どのような天一国を目指しているのかな」と、ふと疑問に感じた。以下のアイコンを押していただければ、この日記がより多くの人に伝わりますので、ワンクリックお願いします。↓にほんブログ村

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