河原町を歩いてるといつもの
お祭りの頃と変わらぬ風景ですが、
祭囃子は流れても、鉾建てはなし
という肩透かしで異例のお祭り

提灯を見るのも、残すところ後
わずかです。
そして、この提灯の神紋。
一つは八幡宮由来といわれて
神社がよく使う三つ巴。
もう一つは、八坂さんの木瓜紋。
きうり、でなく、もっこうと読
みます。
この八坂さんの紋をずっと織田家
の紋と勘違いしてて、京都は信長公
贔屓の町なんだと思ってた

元は大宮の方だった本能寺も再興
されて寺町にあるしね

寺町の本能寺
五つ木瓜とも呼ばれる織田木瓜、
厳密には八坂さんのとは違うとか、
同じものだとの説もあり、似てる

一説には、比叡山焼き討ちで八坂
神社を延暦寺から独立させた時に
この紋になったとのいわれもある
し、もっと古く1500年頃の洛中洛外
図に既に描かれてるとも言われ、
事実不詳です。
ちなみに、織田家の祖先は代々
福井越前町の織田家発祥の地である
剣神社の神官を勤めてます。
剣神社では織田家の氏神として、
素盞嗚尊お祀りしており、同じ神紋
なので、全くの無縁でもないようです

信長公はそういう理由もあり、八坂さん
と祇園祭りも大切にしてたようで、今も
使われてる縁のものがあります。
山鉾巡行の先頭の鉾、長刀鉾も
その一つ。長刀鉾町に何かを寄進
した際に、信長公が左手の自筆で
書いた『長』の文字を鉾の紋とし
て使用するようになったそう。
芦刈山の御神体の小袖も信長公の
寄進だそうで、縁があります

6月に事件があって、それどころで
なかったか、信長公を偲んでかは
不明ですが、本能寺の変が起こった
年もお祭りが11月に延期になってます。
そんな事を思いながら、提灯を見て
いて、もしも、信長公が明智光秀に
討たれなかったら、今頃は京の町に
お寺はなく神社と、もしかしたら、
キリスト教の教会があり、長崎の
ような町だったかも

あるいは、秀吉公が関が原で徳川家
に敗れなければ、金の茶室どころか、
金の天守閣のお城が、全国に建って
たかも、とか色々想像します

よく言われますが、本能寺の変には
黒幕がいて、それは誰だったのか

など、歴史は謎が多くて興味深いです
