ブログネタ:人間以外で似てると言われるのは? 参加中本文はここから
人間(にんげん)は、社会的なありかた、関係性、人格を中心にとらえた「ひと」あるいは「人」のことである。また、その存在のありかた全体を指すこともある。関係性に着目するために「人‐間(あいだ)」という名称があてられたとされている。生物学的に異種の生物との区別としての人の機能を持つ生き物。同種間の間で人から見た人の意味を持つ。人の行いや習性を、その人に属するものとする、主観的見方。人の行い・習性から帰納される習慣・規律・一般的習性の評価基準によって評価される対象。旧約聖書では、すべては神というフィルターを通して語られているが、そこでは同時に人間観や世界観が語られている。殺人、不倫、近親相姦、大量殺人、権力抗争といった(聖なる書物とは思えないような)人間の赤裸々な姿が描かれており、それらの描写やドラマは、数々の芸術作品のモチーフともなってきた歴史がある[1]。システィーナ礼拝堂の天井画「アダムの創造」創世記には天地創造がしるされているが、そこには以下のようなくだりがある。旧約聖書以前の時代、古代エジプトやバビロニアにおいては、あくまで王だけが神にかたどってつくられた、とされていて、人間全体がそうだとはされていなかった。それが創世記においては、人間はすべて神にかたどってつくられた、とされたのである。つまり、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、という人間観が述べられているのである[2]。また、ここでは人間が自然や動物の支配者とされている。自然や動物を支配したり管理したりしようとする西洋的自然観(人間観)は、この創世記の記述の影響を受けている[3]、とも言われる。ソクラテス、プラトン、アリストテレスらによって構築された人間観は、人間の普遍的特質に関心を集中させている。古代ギリシャの人間像というのは、近現代に見られるような、具体的な犯すべからざる個人としての人間といったものではない、とビショフベルゲルは指摘したという[4]。アリストテレスは人間を指して「社会的動物」と呼んだ。キリスト教では、旧約聖書の創世記で示された「神の似姿」という考え方が継承された。キリスト教に基づく倫理観では、一番大切なのは(日本人の多くが考えているような「他人の眼」ではなく)神の眼、神の視点である[5]。さらに、4~5世紀の神学者アウグスティヌスによって原罪の思想が始められたともされ、これはその後西方教会においては重要な思想となった[6]。キリスト教では、イエス・キリストを媒介として、あらゆる人間の同等の価値と各個人の不可侵性が強調された。中世ヨーロッパにおいては、人間が宇宙の中心的存在であるという人間像が席巻した[7]。中世~近世 [編集]1400年代~1500年代の頃になり、ガリレイ・ケプラー・ニュートンらの活動によって新たな世界像が提示されるようになると、人間が宇宙の中心であるという図式が揺らぎはじめた。また、デカルトによって人間の身体までも、化学的、物理的組織だとする視点が広く流布されるようになった。ただし、デカルトは心身二元論を採用しつつ、人間と動物をはっきりと区別した[8]。1700年代になると、ラ・メトリがデカルトの概念を継承し「人間機械論」を発表。1800年代にはダーウィンが自然選択に基づく進化論を唱え、動物と人間との境界を取り払いはじめた[9]。