菅総理、何点つけられる? ブログネタ:菅総理、何点つけられる? 参加中
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菅 直人[注 1](かん なおと、1946年(昭和21年)10月10日 - )は日本の学生運動家、市民運動家、弁理士、政治家。第94代内閣総理大臣、衆議院議員(10期)、民主党代表(第8代)。
閣僚としては厚生大臣(第85代)、財務大臣(第13代)、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当、経済財政政策担当)、党職としては社会民主連合副代表、新党さきがけ副代表、民主党代表(初代・第3代)などを歴任した。

生い立ち
1946年10月10日、岡山県出身の父・菅寿雄の勤務先、山口県宇部市に長男として生まれた。本籍地は岡山県久米郡福渡町(現在の岡山市北区建部町)。父・寿雄は宇部曹達(現セントラル硝子)に勤める技術者[1]だった(のち常務)。姉が一人いる。
少年時代は、幕末の志士・高杉晋作に憧れていた[2]。
学生運動家時代
宇部市立神原小学校、琴芝小学校、神原中学校を経て、山口県立宇部高等学校へ進学。高校2年生の夏、父の転勤に伴い菅一家は東京都三鷹市に引っ越した。東京都立小山台高等学校2年に編入し、卒業。
東京工業大学理学部応用物理学科(現・物理学科)に入学。在学中は学生運動にのめり込んだ[3][4]。全共闘や民青からは一線を画した「全学改革推進会議」を立ち上げ、リーダーとして活躍した[5]。
大学紛争の影響で卒業研究が出来なかったため、紛争が収まった後できちんとやりたいとの自身の意向により一年留年[6]。1970年に大学を卒業した。
弁理士時代
技術者であった父から、会社内での技術者に対する不遇を聞かされており、本屋で見つけた弁理士の本で関心を持ち、有名企業に就職しても「自分の将来・先が見える等」の理由から弁理士を志す[7]。 弁理士という職種を選んだのは、「社会運動に関わりたい、そのためにはあまり拘束されない自営できる道を確保したい」というのが最大の理由だった[8]。
卒業後は小田島特許事務所に就職。在職中に弁理士資格を取得して独立し、「菅特許事務所」を開設する[8]。
政界入り
市川房枝の選挙事務所代表を務め、選挙参謀として尽力したことが政界入りのきっかけとなった[注 2]。その後、1976年の第34回衆院選に東京都第7区(当時)から無所属で立候補し落選したが、こうした活動が江田三郎の目に止まり、誘われる形で社会市民連合に参加した。
1977年の第11回参院選では社会市民連合から出馬したがまたも落選し、1979年の第35回衆院選では社会市民連合から名称を変更した社会民主連合から出馬し、またも落選したが、1980年の第36回衆院選で初当選。
社会民主連合では主な役職として1978年副代表、1985年に副書記長兼政策委員長を務めた。1986年の総選挙で社会民主連合は4議席を獲得したが、選挙直後に2人ずつ日本社会党会派と民社党会派に分かれて所属することになり(その結果民社党会派が日本共産党会派を数で上回り、議会内ポストを共産党会派に渡すことを阻止した)、菅は社会党会派に属した。この形式は、1990年の総選挙まで続いた。
1992年6月13日、PKO国会において、衆議院本会議で中西啓介衆院議院運営委員長の解任決議案に賛成の討論を行ったが、制限時間を過ぎても演説を続け、衛視に壇上から押し出され降壇させられるなどPKO協力法の成立に激しく抵抗した。[9]
非自民連立政権から自社さ政権へ
KKライン
1993年に成立した細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長に就任した。1994年の社会民主連合解散後は新党さきがけに入党。村山自社さ連立政権では、新党さきがけ政策調査会長として、政策調整に当たった。当時の自民党政調会長の加藤紘一とは「KKライン」と呼ばれ、この時代に「住専処理スキーム」が決定された。また、さきがけ東京代表として1995年統一地方選挙や第17回参議院議員通常選挙で党勢拡大に尽力。(参院選で東京都選挙区で中村敦夫を擁立、社民連時代から共闘していた生活者ネット結成以来初の国政選・推薦候補となったが田英夫平和・市民代表に数万票及ばず次点)
厚生大臣として
1996年1月、村山内閣総辞職後成立した第1次橋本内閣で厚生大臣(第74代)として入閣した。
薬害エイズ事件
「薬害エイズ事件」も参照
薬害エイズ事件の処理に当たり、当時官僚が無いと主張していた行政の明白な過ちを証明する“郡司ファイル”(当時の厚生省生物製剤課長・郡司篤晃がまとめていたのでこの別名がある)を菅直人指揮の下にプロジェクトを組んで発見。血液製剤によるエイズに感染した多くの被害者たちに対して、初めて行政の責任を認めた。さらにこの事件の菅の処理は、彼が対談を行っていたカレル・ヴァン・ウォルフレンらから、日本に初めて官僚の説明責任という概念を持ち込み、「アカウンタビリティ」という言葉を定着させたと評価された[10]。
なお、非加熱血液製剤によるHIV感染の危険性を知りながら投与を止めなかったとして参考人招致され1996年8月に逮捕された安部英被告(元帝京大学医学部教授)は一審で無罪となり[11]、認知症により公判停止中の2005年4月に死去[12]。郡司は「私は社会的に殺された」「メディアは悲劇を事件にしてしまった」と語り、安部の弁護人だった弁護士の弘中惇一郎らは著書で「日本のメディアは、悲惨な被害を前にしながらだれの責任も問えないという事実を、受け入れられなかった。検察はスケープゴートとして安部医師を逮捕、起訴した」とメディアと検察を批判した[13]。
不法投棄問題
1996年8月、シュレッダーダストの大量不法投棄で問題になった香川県豊島(てしま)へ、厚生大臣としては初めて現地視察に入り、問題解決の端緒となった[要出典]。またこの年に出版した著書『大臣』(岩波新書)は、前書きで自身が「現役の政治家が岩波新書から本を出すとは異例だが」と書く通り、前代未聞の出来事でベストセラーとなった[要出典]。
基礎年金番号制度の導入
菅の厚生大臣在任中に、基礎年金番号制度の導入が閣議決定された(導入は小泉純一郎が厚相だった1997年1月で、当時総指揮を取っていたのは橋本龍太郎総理大臣(当時)であった)そのため、2007年の年金記録問題(「消えた年金記録」問題)について責任を問う主張があった(自民党では2007年3月に、年金問題に関するパンフレット[14]を作成し、当時の年金問題の責任者は菅直人であったと言う事を併せて示した。これについては自民党内からも批判の声が上がり、それに対して、菅は「言いがかり以外の何ものでもない」と反論した[15])。また、衆議院の会議録(136-衆-厚生委員会-28号)によると1996年6月12日に国保、介護保険の件で年金からの天引きを提案。
これにより後に後期高齢者医療制度が問題化した際、民主党が年金からの天引きを批判するのはおかしいのではないかとの指摘もある。[16]
O157とカイワレ問題
「O157」および「風評被害」も参照
1996年8月のO157騒動の時には、「大阪府内の業者が出荷したカイワレ大根が原因となった可能性は否定できない」と発表。その直後からカイワレ大根への風評被害が発生し、結果倒産・破産するカイワレ農家や業者(その大半が自営業者や零細企業であった)が続出、自殺者まで出る事態となった。しかし、立入検査においては施設、従業員および周辺環境からはO157は検出されなかった[17][18][19][20]。
これらの経緯を受け、菅は記者会見の場でカイワレのサラダを食べることで、安全性のアピールを図った[注 3]。一方で「O157以外の通常自然界に存在するはずの細菌も一切検出されなかったのだから、事件後消毒されたことは明白で証拠隠滅が図られた」などと主張した。この問題については、東京と大阪で風評被害を受けたカイワレ大根生産業者らが起こした国家賠償を求める民事裁判では、最高裁で平成15年5月21日に国側敗訴が確定している[21][注 4]。大阪地裁での判決について、菅は、ホームページ上で「十分な科学的根拠がない」と判決が認定した疫学調査は、集団食中毒などでは極めて有効な調査方法であるとして「裁判官の判断は疑問」と反論した。[22]。
民主党結党から政権交代へ
結党・初代党代表
1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が旧民主党を旗揚げすると、これに菅も参加した。菅は鳩山と共に代表となり旧民主党がスタートした。結党当初は衆議院議員50人、参議院議員5人の計55人が参加した。1998年4月27日に新進党分党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流して、新民主党を結成し、代表となる。合流当初は衆議院議員98人、参議院議員38人の136人が参加した。
1998年7月12日の第18回参院選で27議席を獲得する。
橋本龍太郎首相は敗北の責任から内閣総辞職に追込まれた。総理大臣指名選挙では、自由党と日本共産党は第一回投票から菅に投票し決選投票では公明・改革クラブ・社民党・さきがけの支持もあり参議院では首相に指名されたが、衆議院の優越により衆議院の議決で指名された小渕恵三が首相となった。
1998年の金融国会では、「われわれの要求が受け入れられれば政府の退陣は求めない」と発言し、所謂政策新人類と呼ばれた自民党若手議員らとともに、金融関連再生法案の策定に励み、実際に丸呑みと揶揄されるほど、菅らの主張が受け入れられたが(ただし、菅は雑誌で不良債権発生当時の都市銀行役員等の刑事責任を問えと雑誌で発言した事があるが、これは受け入れられなかった)、小沢一郎らは「参院選で大勝した直後に政局にしないとは弱腰極まりない」と批判するなど、この言動に対する評価は二分された。菅の金融問題への対応は素早く、経済学者金子勝は朝まで生テレビにて菅を、政治家としては最も早く金融に着目・解決のためのスキームをまとめさせたとして、菅の功績を評価する発言をしている。
1999年(平成11年)に2回行われた民主党代表選挙では、1月には再選するも松沢成文に善戦を許し、9月には鳩山由紀夫に敗北したが、党政策調査会長に就任した。