第1章   雨の中買わず飛込む店先へ(読み人知らず)
 雨が降っている。水無月の晦日、梅雨の合間の晴れが続いた後の雨である。この
日の雨は登城の帰り火付盗賊改方の長谷川上間虎爾平の肩を濡らしていた。
 雨が降っている。大川の堀切橋のたもとにある蕎麦どころの亀屋ののれんも塗れ
ていた。
 雨が降っている。その雨の中を小走りに亀戸方面に進む飛脚のふくらはぎは跳ね
た泥で酷い有様だった。
 何かが変だと長谷川上間虎爾平は思った。いや、思うなどという時間の経過は無
かったかもしれぬ。風というか気配というかそういうものだったのかもしれぬ。殺
気とか気配というものは若い頃本所深川の無頼の者どもとやり合う中で身に付き、
利馬邸道場で剣の教えを利馬桂胡大好乃介にみっちりと叩込まれ、その感覚を鋭く
研ぎ澄ませてきたのである。
 殺気を感じたのは長谷川上間虎爾平だけでなかった、その横を走り去ろうとした
飛脚も虎爾平と同じ様に、否、それ以上に感じたのである。それもそのはず、飛脚
に姿を変えていたのは長崎出島の忍、語雷菌乃輔であった。
 虎爾平と菌乃輔がお互いに殺気を感じあっていたちょうどその頃、神田鍛冶町の
長屋ではお恵が頭を抱えて悩んでいた。お恵はもともと上野の国、道志村の生れで
ある。甲府城主鷹巣天典に仕えるところの水越照利伊乃輔惟親の三女として生れ、
幼い頃より恋仲であった利馬稽古大好乃介を慕って江戸に故郷を後にして住着き三
カ年が過ぎようとしていた。というのも道志村上の代官、武権乃丞にしつこく屋敷
に上がるように命じられていたためであった。
「このまま武の代官様の女になるよりはどんなことがあっても利馬様の元にいきた
いものよ。」
 けなげにも女心を鬼にして親子の別れの挨拶も済ませぬまま、置き文をしたため
て江戸に向ったのであった。
  当時の関所は入鉄砲と出女には厳しいものの、存外に入り女には甘かったことも
あって江戸に無事着いたのであった。
  お恵が悩んでいたのは他でもない、親元を後にして一人身を置く鍛冶町で愛しい
桂胡大好乃介を探し続けるうちに底をついた金の工面であった。そのために長唄を
長屋の住民に教えていたのである。そして、自ら新しい歌も作るということもして
おり、神田界隈だけでなく遠くは平塚辺りからもお恵の長唄を聴きにくる者もいる
盛況ぶりであった。
「江戸に着いたときにお懐かしい桂胡大好乃介様を思い作りました{お主への道}
、そして{頬に接吻してくだされ}を歌い続けて早三年が過ぎようとしているのに
利馬様はいずこでお暮しになっていらっしゃることか、早う会いたいものよの。」
 お恵の独り言を庭先で聞いていたのはたった今彼女の元に着いた瓦版の鴻茶であ
った。この男お恵の長唄歌会の案内をその瓦版に書き江戸中を飛回っていて、お恵
にとっては利馬を探してもらうのに、鴻茶にとっては歌会の札を売って得るお金で
持ちつ持たれつしていたのである。
「はて、お恵ちゃん、いつもの明るいお恵ちゃんに戻ってちょー、ほれ先日お作り
になったばかりの{元服の頃}、あれを歌って欲しいぎゃー」
 その声に我に返ったお計は壁に立てかけていた三味線を持ち、歌い出したのであ
った。
 「元服の頃の、拙者に会いたいで候。移る年月の中の、向う岸からで候。」
 ひとしきり歌い終えた頃には雨は上がり、夕刻の時を伝える鐘が遠く北の丸付近
から聞えてきたのであった。
 「お恵ちゃん、大阪から凄い芸人達が江戸に向ってるぎゃや、恐怖でぎゃ・・」

 「これこれ、鴻茶殿そちまで興奮なされていかがいたしたか?」
 三年の年月が経ったのにも係わらず、武家言葉が抜けないお恵であった、これが
江戸の町民の心をとらえてはなさない魅力であったのかもしれない。
つづく