一、詩家夫子ふうし

 おうしょうれいあざなしょうはく旧唐書くとうじょ(巻一百九十下・列伝一百四十下・文苑下)並びに全唐詩の小伝はけいちょう(現在の西安市)の人と記す。新唐(巻二百三・列伝一百二十八・文芸下)はこうねいの人とする。彼の詩の「146の京にくに別る」に、「故園は今もりょうの西に在り」と有ることから京兆の人が正しく、新唐書の言う「江寧の人」は地方官として赴任していた任地からの誤りであろう。

彼は盛唐期の第一級の詩人であり、李白やもう浩然こうねんなどと交流があった。現代なら中国の詩人と言えば先ず李白と杜甫であるが、盛唐期の人々、つまり彼と同時代の人々はおそらく李白と王昌齢を挙げる人も多かったであろう。

中国の長い歴史の間には多くの詞華集(アンソロジー)が編集されたが、その中で最も特色を有するのが河嶽英霊集かがくえいれいしゅうである。この詞華集を編んだ丹陽進士たんようしんじいんばん彼に選ばれた詩人とが同時代であり、他の詞華集は全て編者が過去の詩人を選んでいる。そこで河嶽英霊集に採用された詩の数によって、盛唐期の人気を示す一つの指標になると考えた。

最も多く掲載されているのが王昌齢(16首)、王維(14首)、次いで李白(13首)。杜甫に至っては一首も選ばれてはいない。このことはいささか不思議に感じるが、李白と杜甫の年齢差がおよそ十年は有ることから、河嶽英霊集の編集時期には未だ杜甫がさほど有名でなかったのか、あるいは現代ほど盛唐期の人々に人気がなかったのかも知れない。いずれにしても後世の中国や日本の評価とは異なり、彼が生きていた盛唐期では王昌齢はまさしく中国を代表する詩人の一人であったといえる。

 さらに彼は「詩家夫子ふうし」と当時の人々に呼ばれている。夫子とは通常孔子を指す。即ち詩家夫子とは詩の世界の孔子先生という意味になる。唐代を含めた過去の中国の人々にとって孔子とは特別な存在であり、この称号は通り一遍の敬意ではない。また彼だけがこのように呼ばれたのであり、例えば李白や孟浩然あるいは平安貴族たちが敬慕した白楽天もこうは呼ばれなかった。

二、七言絶句の聖 

では何故彼だけが詩の孔子先生かと言えば、もとより唐代一級の詩人としての敬意も大きかったであろう。彼の七絶、つまり七言絶句は天下一品ともたたえられ、李白とともに並び称された。

七言詩は五言詩に比べて発達がおそく、七言律詩の定型が完成するのは佺期しんぜんき(650713?)と宋之そうしもん(?~712)を待たなければならない。全唐詩に掲載されている五言律詩と七言律詩の実数を比較してみると以下のようになる。

 

初唐 五言律詩 823

七言律詩 72

盛唐 五言律詩 1652

七言律詩 300

と圧倒的な差が有る。更に絶句に関しては

初唐 五言絶句172

七言絶句77

とやはり五言絶句が多い。しかし盛唐になると逆転する。

盛唐 五言絶句279

七言絶句472

(東方雑誌四十巻八号「唐代科挙制度と五言詩の関係」胡嗣坤による)

 

この逆転の転機となるのが王昌齢である。全唐詩に掲載されている盛唐期の七言絶句総数472に対して実にその六分の一に当たる74首が王昌齢の作である。(王昌齢集編年校注 胡問濤・羅琴)まことに七言絶句の聖という名に相応ふさわしい数である。

このように詩人としての実力も詩の世界の孔子先生と呼ばれる程に群を抜きん出ていたのは事実だが、更に彼には作詩理論の著作書がある。それは李白にはない。またこうした文学理論書は歴代数多く書かれたが、その著者で彼ほどの詩人は一人もいない。つまり王昌齢は実作とその理論の両面に於いて中国の詩の世界の先生としての能力が群を抜いていたからこそ「詩家夫子」と呼ばれたと思われる。

 

三、空海と王昌齢・・・・

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