通算⑲
藤原道長 966(康保3)~1027(万寿4)
平安中期の公卿。「藤原道綱母」が、妻の一人である藤原兼家の子。右大臣、左大臣となり、次々と娘を入内させ、3代にわたる天皇の外戚となる。第66代一条天皇のもとへ妻・倫子との長女・彰子(紫式部が仕えた)を、第67代三条天皇に次女の妍子を、第68代後一条天皇に三女の威子を入内させたのだ。そして摂政、太政大臣として藤原氏の全盛を実現。「この世をば我が世とぞ思う…」の歌は有名。左大臣時には、吉野の金峯山に参詣、埋経する。平安京内の数カ所に豪邸を構えたが、中でも栄華の舞台となったのは土御門殿である。土御門殿は、妻・倫子の父源雅信によって建設された寝殿造の邸宅で、道長に継承された。火災後、豪華に再建され、「紫式部日記」にもその美しさが描写されている。以後、東三条殿と並ぶ摂関家当主の拠点として機能した。室町時代以降に里内裏であった土御門殿が天皇の恒常の住居となった。1855(安政2)、老中の松平定信が、律令制の形式にのっとり改築、現在の「京都御所」に至る。道長は太政大臣後に出家、土御門殿の東の京外(鴨沂高校付近)に造営したのが、阿弥陀堂(無量寿院)にはじまる「法成寺」、すなわち「御堂」(廃寺)である。故に後に「御堂関白」と称されるが、実際に関白になったことはない。文学を愛好した道長は、紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護したという。法成寺で没した。
○道長が、「藤原摂関家の氏寺・法性寺」に建立した五大堂の中尊と伝える「本尊 十万 不動明王坐像」が、「同聚院」(東福寺塔頭)に残る。定朝の父・康尚の作という。
○国宝の自筆日記「御堂関白記」14巻が、「陽明文庫」(右京区宇多野上ノ谷町)に残る。
○宇治木幡の累代の墓地にも、「一門埋骨の所」として浄妙寺という寺を創建。
○ときの権力者道長が、左大臣源重信(宇多天皇の孫)の妻から譲り受けた別業を、別荘「宇治殿」とし、永承期(1046~1053)、子・頼通がこれを仏寺に改め、「平等院」と称した。開山は、明尊(小野道風の孫)。
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