母親と買い物に出掛けて
途中でいなくなる
なんてことはしばしば、小学生の頃ありました。
小学校低学年の頃は授業中人の話を聞けず、鉛筆をかじっていたり
隣の子と喋ることがありました。
しかし、その後の転校とあたった先生の影響があったと思います。
「人間として恥ずかしい」
という概念は当日、理解が難しかったように思いますが
今となっては貴重な教えでした。
ある時ある男の子がある女の子に対して
「ブス」
と罵ったため女の子が泣き出すことがありました。
別によくあることだと思います。
その先生はその男の子を殴り飛ばし
泣きながら憤怒していました。
具体的には覚えていませんが
「おまえの人としての卑しさに泣いている」
「非のない人間(悪意のない)に対して
自分の気持ちがよくなかったからといって
悪意をぶつけたおまえの人間としての恥ずかしさだ」
という内容でした。
私なりに「人に敬意を払えないのは人間として恥ずかしい」
のだと解釈しました。
それ以来、中学でも高校でも大学でも
授業中(ユルい先生とみくびって)しゃべってる子に対して
非常にイライラする側の人間になりました。
ADHDだから集中力がなくなる
というのは言い訳だと思っています。
そもそも「集中力が切れる、相手の話に関心がもてない」
というのは 相手に対して非常に失礼 だと考えるからです。
ADHDだったりADDの言葉の浸透が広まるのは嬉しいことです。
しかし
その一方で そのADHDやADD が言い訳に、隠れ蓑にされることを
私は非常に恐れています。
途中でいなくなる
なんてことはしばしば、小学生の頃ありました。
小学校低学年の頃は授業中人の話を聞けず、鉛筆をかじっていたり
隣の子と喋ることがありました。
しかし、その後の転校とあたった先生の影響があったと思います。
「人間として恥ずかしい」
という概念は当日、理解が難しかったように思いますが
今となっては貴重な教えでした。
ある時ある男の子がある女の子に対して
「ブス」
と罵ったため女の子が泣き出すことがありました。
別によくあることだと思います。
その先生はその男の子を殴り飛ばし
泣きながら憤怒していました。
具体的には覚えていませんが
「おまえの人としての卑しさに泣いている」
「非のない人間(悪意のない)に対して
自分の気持ちがよくなかったからといって
悪意をぶつけたおまえの人間としての恥ずかしさだ」
という内容でした。
私なりに「人に敬意を払えないのは人間として恥ずかしい」
のだと解釈しました。
それ以来、中学でも高校でも大学でも
授業中(ユルい先生とみくびって)しゃべってる子に対して
非常にイライラする側の人間になりました。
ADHDだから集中力がなくなる
というのは言い訳だと思っています。
そもそも「集中力が切れる、相手の話に関心がもてない」
というのは 相手に対して非常に失礼 だと考えるからです。
ADHDだったりADDの言葉の浸透が広まるのは嬉しいことです。
しかし
その一方で そのADHDやADD が言い訳に、隠れ蓑にされることを
私は非常に恐れています。