先回の投稿からまたまた期間が空いてしまいましたゲロー

でも別にブログに飽きたわけじゃないんだからねっ!

まだまだ書きたいこといっぱいあるんだからねっ!!プンプン

 

そんな私、実はこの一週間パラオへダイビングをしに行ってました〜うお座

 

ボートから撮った一枚。

空に虹がかかって、とても綺麗でした虹

ダイビングの様子も編集が終わり次第、動画upしたいと思います

 

 

ところで、パラオってまだまだインターネットが整備されておらず、Wi-Fiも繋がりにくいし、速度もめっちゃ遅い。

画像が多いホームページなどまともに開かず、固まってしまいますガーン

 

まあ、毎日ダイビング三昧で退屈することもなかったのですが、それでも合間合間のちょっとした空き時間、スマホでネットをチェックしようと思っても、やっぱり繋がらないので手持ち無沙汰になったりして…真顔

 

いかに自分がネットに毒されているか、改めて思い知らされましたねぇ滝汗

私はSNSもやらないし、スマホなんて家にいるときはほとんど手に取らない人間なので、使えないなら使えないで全然平気なのですが、それでも結構不便を感じる場面が何度もあったりして…汗

 

帰国して空港からの帰りの電車での光景。

車内のみんながスマホ片手に画面とにらめっこしているのを見て、この人たち、パラオへ行ったらネット禁断症状で大変だろ〜なーと思ったり。

 

で、パラオにいる間、ネットに繋がらないで手持ち無沙汰のベッドの中で読んでいたのが、たまたまiPadに入れていた手塚治虫短編集。

 

 

今回は、その短編集に収録されていた作品

”ふたりでリンゲル・ロックを”

を取り上げますウインク

 

http://tezukaosamu.net/jp/manga_syllabary_search/430.html

 

この作品は1982年に発表されたSF短編です。

表紙に描かれているコンピューターが時代を感じさせますねーニヤリ

 

当時は”マイコン”と呼ばれて、NECのPC-8801、シャープのX1、富士通のFM-7の8ビット御三家が登場した、マイコン・ブーム真っ只中の年でした。

 

同年”ゲームセンターあらし”のすがやみつるは”こんにちはマイコン”を出版し、小学館漫画賞を受賞。

この作品内でも10年後はマイコンによって生活がこんな風に変わる!と未来予想をしており、現在、実際に多くのことが実現されていたりします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/こんにちはマイコン

コンピューターの普及により、私たちの生活が豊かに便利に快適に変わると、誰もが大きく夢を膨らませることのできた幸せな時代でした。

 

そんな流行のマイコンを題材に「ぼくにもできるよ」と手塚治虫が近未来SFラブコメディとして料理したのが本作となりますニヤリ

 

 

時代は1980年代末、マイコンは目覚ましい発達を遂げ、どんな未来でも予測できるようになっていました。

マイコン予測計は文具屋で990円で売られるまでに普及しており、誰もがみんな何をするにもマイコンで調べなければ気が済まない、何も決められない、全てを委ねてしまっている、そんなマイコン依存の社会が物語の舞台となります。

 

主人公の小学生、荒間世田ノ介(よたのすけ)は幼馴染の鶴寺いぶのことが大好きでした。

しかし世田ノ介の父親はいぶと仲良くするのに大反対をします。

それは、世田ノ介といぶの将来をマイコンで調べたら、何度やっても真っ暗闇の未来が予測されたからでした。

 

そんな父親やマイコン社会に反発しながら、幼い二人は付き合いを続けてより絆を深めていった、小学六年生になったある日のこと。

クラスで鶴寺いぶの将来についてのコンピュータ予測が話題になります。

その予言とは「いぶは1999年6の月に 世界をわがものにする」というものでした。

それは当時流行していた”ノストラダムスの大予言”を思わせるもので、クラスのみんなが いぶを悪魔扱いするようになってしまいます。

 

ひどく傷ついた いぶと、そんな彼女を支え続けた世田ノ介の、ふたりの小学生時代も遠く過ぎ去り、10年後の1999年。

ふたりは学校を卒業して以来、離ればなれに連絡を取り合うこともなくなっていました。

 

22歳の世田ノ介はマイコンの決定に従って、三流医大の大学院生になっていました。

彼は意に沿わない大学病院勤めに辟易してサボりながら、ふと いぶのことを思い出していました。

すると突然、宇宙センターから呼び出しの電話がかかってきました。

 

その電話は、日本で最初のスペースラブロケットの乗組員に世田ノ介が選ばれた、というものでした。

全く寝耳に水の、この唐突な誘いを訝しみながら宇宙センターに行ってみると、そこで待っていたのは幼き日の恋人、鶴寺いぶ その人でした。

 

いぶは日本初の女性宇宙飛行士となっていました。

このスペースラブの実験目的は、宇宙空間での人間の生殖実験でした。

すなわち彼女は人類初の宇宙で生まれる子ども”宇宙人”の母となるべく、このロケットに乗り込むことになっていたのでした。

そんな いぶが相手として選んだのが、離ればなれになりながらも、これまでずっと想い続けてきた世田ノ介。

 

いぶは宇宙へ飛び出したロケットの中で、世田ノ介に告白をします。

小学生時代に傷つけられたコンピュータの予言の真相とともに。

「愛してるわ… 世田ノ介さん…」

 

そしてコンピュータの予言通り、ふたりは、二人っきりの宇宙の暗闇の中で結ばれるのでした。

 

 

 

いやーーー汗

こうしてあらすじを書いてみても、ツッコミどころ満載のお話で、”予言の真相”なんてわざわざ書くのも憚られるほど「なーんのこっちゃ。つまらねぇ」ゲロー

 

こんなオチは漫画の神様だから許されるのであって、新人漫画家がこんな原稿を編集に持ち込もうものなら、速攻ゴミ箱行きになることは必至でしょうチーン

 

そんな一見するととんでもない駄作ですが、それでいて、なんでか心に引っかかるものを感じさせる、不思議な魅力のある小品でもあるんですよね照れ

 

それはこの物語が非常にシンプルで穴だらけであるがゆえに、逆に読者の想像の余地がふんだんにあり、行間を読めば読むほど物語世界が広がる、ロマンチックな神話のような作りになっているからかもしれません。

 

何より、タイトルの”ふたりでリンゲル・ロックを”ってのが、とてもいいですよね。

最初リンゲル・ロックってカクテルかなんかの名前かと思ってたんだけど、調べてみるとリンゲル・ロック液って生理的食塩水や輸液の一種らしく、摘出した臓器を生きたまま保存するのにも用いられるのだそう。

 

ロケットの名前が”リンゲル・ロック”ということは、いぶと世田ノ介は地球から摘出された臓器、ということになるのかな?

 

 

 

今回、数年ぶりにこの作品を読み返して、ふと思い浮かんだのが、現在アニメが放映中の”恋と嘘”でした。

 

恋と嘘』(こいとうそ)は、ムサヲによる日本漫画作品。略称は「恋嘘」。2014年8月よりマンガボックスDeNA)にて連載中。単行本は講談社コミックスより既刊6巻(2017年6月9日現在)。2017年7月よりテレビアニメが放送中、2017年秋に実写映画化が予定されている。

 

超・少子化対策基本法(通称:ゆかり法)により、満16歳以上の少年少女は自由恋愛が禁止となり、国が「国民の遺伝子情報に基づいて決めた」最良の伴侶と恋愛をして結婚しなければならない、子作りから家庭を作ることを義務付けられた部分的な管理社会[1]となった未来世界。政府によって遺伝子レベルで最良と選別され結婚が決められた少女と、自身が本当に好きで忘れられない初恋の少女、その間で心が揺れ動く少年の恋愛物語。

https://ja.wikipedia.org/wiki/恋と嘘

コンピュータによって将来の伴侶を勝手に決められてしまう、というプロットが”リンゲルロック”とよく似ていますよね。

 

”リンゲルロック”の場合は、いぶが運命の相手であるとコンピュータがちゃんと予測していたにも関わらず、その予測結果を読み違えたために、恋するふたりの仲が引き裂かれてしまうという悲劇が起こってしまいました。

 

”恋嘘”の場合は、いぶが 莉々奈と美咲のふたりに分かれてしまった格好で、コンピュータが予測する客観的に最良の相手と、自分が本当に好きな初恋の相手と、どちらを選ぶべきなのかという問題がクローズアップされています。

 

 

昔から”運命の赤い糸”というのが信じられてきました。

他の誰でもない、その人と出会い、愛し合い、家族となる。

だが、なぜ”その人”でなければならなかったのか?

たまたま?

偶然?

 

私たちは自分の意志で恋愛をし、”この人”と自分の意志決定に従って結婚できると思っています。

しかし、そもそも”この人”と出会ったのは、自分の意志とは無関係の偶然の出来事でしかなく、この人を”好きだ”と思うのもまた、自分の意志決定から離れたところにある感情の賜物でしかありません。

したがって私たちは「”この人”でなければならない」という決定の根拠を明確に示すことができずに、結果として”この人”に決めたのは、結局二人の間に”縁”があったから、という運命論に落ち着いてしまうのです。

 

そう考えていくと恋愛というものは、自分の意志を超越した窺い知ることのできない大きな力によって、その人に恋をするように仕向けられ、結ばれるように定められていた結果でしかないように思えてきます。

 

このような、あらゆる事象は因果律に支配されて「あらかじめ定められている」とする考え方を決定論と呼びます。

コンピュータに詳細なデータを入力すれば未来を予測することができる、

というのもこの決定論的立場からきています。

 

この決定論という世界の捉え方は突き詰めれば、一方で人間性を否定するものでもあります。

 

自分は将来◯◯になりたい!と夢を見ることも、その夢に向かって努力することも全く無意味である

と否定するのが、決定論的世界観であるからです。

 

では、果たして人間は因果律の支配に束縛されずに、自己の責任において意思決定し、行動し、未来を創造することができるものなのか?

 

この問いかけは自由意志の問題と呼ばれます。

 

”恋嘘”になぞらえるなら

莉々奈=決定論 VS 美咲=自由意志

って感じでしょうか

 

話をわかりやすくするために、かなり強引に短絡化しています汗

決定論と自由意志は必ずしも対立するものではない、ということも誤解なきよう…

 

 

決定論と自由意志の問題とを、どう折り合いをつけるべきか?

 

”リンゲルロック”においては いぶが、この両立をうまくやってのけています。

いぶは子どもの頃から目指していたわけではなく、「これも運なのね」と、たまたま適性検査にパスして宇宙飛行士になっていました。

いぶもまた決定論的人生を歩んできたとも言えるのですが、その宇宙飛行士の立場を利用して、幼い頃からずっと想い続けてきた恋人 世田ノ介をわが手に入れてしまうのは、まさに自由意志からの行動であると言えるでしょう。

 

宇宙空間という、まさに”ふたりだけの世界”に連れ出して愛の告白をするなんて、そんないぶの大胆で情熱的なところが、とてもキュートに感じられるのも、本作の魅力だと思います。

 

そしてそんな結末をもコンピュータはあらかじめ予測していた、というのも、この作品をよりロマンティックなものにしています。

 

 

決定論は必ずしも悪というわけではないんですよね。

 

男の子はいつだって「あー、いつか空から女の子が降りてこないかなー」と夢見てるし、

女の子は「いつか白馬に乗った王子様が迎えにきてくれないかしら」と夢見てる。

 

偶然に出会い、たまたま好きになった相手を、あらかじめ定められた”運命の人”とドラマティックに考えるのも、人生を意味あるものにする上で、悪くないと思うんですよ。

 

また、自分の意志ではどうしようもない理不尽な別れも人生にはつきものだけれど、こんなに好きだったあの人と結ばれなかったのは”運命”だったとして諦めるのも、不条理な苦しみから抜け出して、次への一歩を踏み出すのには必要なことでしょう。

 

ただ、決定論は突き詰めていくと、やはり必ず虚無に陥ってしまう。

 

 

人生のほとんどは自分の思い通りにはならず、全てはあらかじめ決められてしまっているように感じるものだけど、

いぶのように大胆に自由意志を持って行動しないと、本当に欲しいものは手に入らないんだよ。

 

そんな大切なことを思い起こさせてくれた一作でした。