いやぁ〜〜〜〜前回の更新からなんと1年以上も経っちゃいましたね〜〜滝汗

 

もうブログ辞めたんかと自分でも思ってたんだけどねーガーン

 

というのも、前にも書いたけどTwitterを始めてから(ID:@ungm6074)というもの、そこでツイートするだけでもう満足しちゃって、それ以上世間様に向けて自分が何か言うこともないなーって。

そして、前回の投稿「ファースト・マン」でもって、自分がこのブログを使って言いたかったこともあらかた言い尽くしちゃったかなーって思って。

 

あとは、この自意識の塊のような四畳半ブログの仮想空間から抜け出して、ただ”体験”を。

日々、この身に押し寄せては遠ざかりを繰り返す”体験”を。

その波に身をたゆたえて、言葉を越えた場所で、

ただ踊り続けるしかないだろうと、

そう思っていたのでした……真顔

 

 

 

 

でもそんな考えもあっさり覆ってしまいましたね。

その元凶となったのは、誰もが信じて疑わなかった、当然やってくると思っていた

オリンピック・イヤー 東京2020”の世界線を大きく狂わせ、消失させてしまった

COVID-19』新型コロナウイルス。

降って湧いたようなこの災厄よっていろんなことが変わってしまった。

 

新型コロナ。

未知のウイルス感染症の世界的パンデミック。

発生源とされる中国をはじめ、欧州やアメリカなどで多くの死者が出て、それは100年前の”スペイン風邪”の再来を思わせる恐怖の事態に、世界中が震え上がった。

 

あれから半年経った(2020年9月)現在、

でもまだそれほどバタバタ人が倒れたりしてないぞ。

当初はペスト並に恐れられ、マスコミも連日恐怖心を煽りまくってた、あれは一体なんだったのか。

でもまだまだ恐怖の事態は、実はこれからかもしれない。

とにかくこの新型コロナ、「可能性としては」まだまだわからないことだらけなのだ。

 

未知”であること。

 

新型コロナがもたらす危機の本質は、病気それ自体よりもそれが”未知”であることにこそ存在するのだろう。

未知”であるからこそ、人は「想像」し、「憶測」し、「類推」し、「仮定」し、「忖度」し……それら幾多の”情報”が世界のあちこちから無数に発生し、互いに共振し、増幅し、時に歪曲し、変調しながら伝播し、世界を覆う。

 

情報=言説=”言葉

 

そのようにして、コロナ禍において様々な聞き慣れない、新しい”言葉”が飛び交いだした。

ロックダウン、ステイホーム、ソーシャルディスタンス、リモートワーク、ニューノーマル、ウィズ・コロナ……etc.

 

それらコロナにまつわる”言葉”によって、私たちの生活様式が変容し、人によっては人生のあり様が変節し、世界の仕組みそのものが変化しようとしている。

 

このコロナ禍の状況を戦争に喩えられることが多いが、これが戦争だとするならば、それは人類vsウイルスの戦いというよりは、この病をきっかけに揺らいだ世界の仕組みを変革し、"ニューノーマル"となる世界の覇権を握ろうとする者たちが互いに火花を散らす権力闘争。

この世界の秩序を組み換える”パワー・ゲーム”として、この禍(わざわい)の本質を捉えるべきではないだろうか。

”未知”が”既知”になるまでの間の騒乱に乗じて、いかにゲームチェンジャーとなり得るような”言葉”のミサイルを撃ちこめるか。

 

”未知”から生み出された”言葉”のミサイルが世界を編みかえる。

それぞれがそれぞれの立場から、自分の駒を有利に進めるように。

 

そもそも”命”の問題だったのが、いつの間にか”言葉”の問題にすり替わっている。

 

コロナ問題の核心は”言葉”の問題だった。

 

それまで”言葉を越えた場所”で踊っていたいと望んでた。そんな場所があると思ってた。だが、その場所もまた”言葉”の網の目で編まれた鳥籠の中にすぎないことを思い知らされた。

 

もしも仮に”言葉を越えた場所”というものがあるとしたら、それは病床に伏せる死の淵の向こう側くらいのものだろうか。

あるいはそんな彼岸の彼方でも”言葉”のミサイルはどこまでも追っかけてくるかもしれない。

 

そんなことをつらつらと思いながら、もう一度何か自分なりの”言葉”を尽くしてみよう。

そう思ったのでした……。

 

 

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そんなこんなの私が今回「チョチョイのチョイス」したのは、

 

現在少年誌『ゲッサン』にて連載中のラブコメ漫画。

「からかい上手の高木さん」

グラサン

 

からかい上手の高木さん』(からかいじょうずのたかぎさん)は、山本崇一朗による日本少年漫画。『ゲッサン』(小学館)の付録小冊子『ゲッサンmini』において、2013年7月号から連載開始。『ゲッサン』本誌で連載していた『ふだつきのキョーコちゃん』(以下『キョーコちゃん』)が2016年7月号で完結した後、『ゲッサン』に移籍して2016年8月号から定期掲載となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/からかい上手の高木さん

 

昨年(2019年)夏アニメとして第二期「からかい上手の高木さん2」が放映されまして、私はそれにどハマりしちゃいましてねーニヒヒ

 

 

放送終了後は”高木さんロス”に襲われちゃってゲロー

思わずたまらず、作品の舞台である小豆島へと、聖地巡礼に旅立ってしまったという……滝汗

 

 

 

もうあれから一年かー。

めっちゃ楽しかったなー爆  笑

林間学校のキャンプで西片と高木さんがふたりで眺めたのと同じ、あの満天の星空を見ることができて嬉しかったなーおねがい

忘れがたい、いい思い出になりましたキラキラ

 

 

なんて、

そんな私を虜にしたこの作品を知らない人に、これがどういう作品なのかを説明しますと……

 

小豆島で暮らす中学生の男の子、”西片”が隣の席の女の子”高木さん”にひたすらからかわれ続ける、というお話。

 

ただ”からかい”と言っても、高木さんは西片にはっきりとした好意を抱いていて、でもまだまだおぼこい田舎の中学生男子である西片は、”恋”だの”愛”だの何それ?小っ恥ずかしいえーって感じで、そんな”からかい”の内に潜む彼女の好意になかなか気付いてくれない。

その思わせぶりな好意(行為)は絶えず西片をドギマギさせ、困惑させ、苦しめるものでもありながら、それに気付かないどころかむしろ意識せずにはいられない。

だが、そんな彼女の本心を西片が認めるにはあまりに”確証”が足りず、一方その”確証”を与えるには「恥ずかしい」、高木さんもまた乙女な中学生女子なのでした。

 

そんなふたりは、”友だち”というのでもなく、もちろん”恋人”などではなく、かといってただの”クラスメート”というには離れてもいない。

名状しがたい、とてもあやふやで曖昧なふたりの関係。

 

その近くて遠い距離を繋ぐのが”からかい”。

 

小学生男子が好きな女子と仲良くなりたいんだけど、どう接していいか分からずに、それでもとにかく関わりを持ちたいばっかりにイジメてしまう……で、その反応が可愛くってさらにイジメてしまう……

よくある、アレですね。

(で大抵の場合、女子は虐めてくる男子を本気で嫌がって、それが以後の男性観にトラウマを残しちゃったりして、まぁロクなことにならなかったりするんですがね……ゲッソリ

 

ただ、高木さんはその辺のさじ加減はきちんとわきまえていて、西片もそこまで本気で嫌がるどころかまんざらでもないって感じで。

傍目から見ればふたりはすでに「付き合っている」恋人同士のイチャイチャにしか見えないわけで……ニヒヒ

 

そして、そんなふたりを邪魔するような恋のライバルがあらわれるわけでもなく、ふたりを引き裂くような事件が発生するわけでもなく、

ただずっと、ふたりだけの秘密の関係、「からかい勝負」のイチャイチャ・キュンキュンラブラブシチュエーションだけが続いていく……。

 

 

以前、私はこのブログの投稿『女神の恋 その2』で、ラブ・ストーリーの構造について言及したことがありました。

ラブストーリーとは男女の間になんらかの障壁があって簡単には結ばれない、それをなんとか乗り越えて二人が結ばれる、その過程を描くもの。

ラブストーリーの本質とはその”障壁”であり、そのバリエーションに過ぎない。

その障壁は身分だったり境遇だったり病気だったり、不倫もその内に入るだろう外的要素と、「アイツ嫌い、ムカつく」などの人物の心理が障壁となる内的要素に大きく分けられる。

これを『〜高木さん』に当てはめると、”外的障壁”は一切排除され、ただ未成熟であるがゆえの「気恥ずかしさ」という”内的障壁”のみでこのストーリーが駆動されていると言えますかね。

 

でも実際のところ、この作品に”障壁”という概念を当てはめてもあんまり意味がない。

なぜならこの作品はそういったラブストーリーの構造を否定するところから生まれてきたジャンル『日常系(空気系)』の派生のひとつだからです。

 

空気系(くうきけい)若しくは日常系(にちじょうけい)[1]とは、2000年代中頃以降に見られる特定のアニメ作品群[2][3]。登場人物、とりわけ若い女性キャラクター達の会話を軸に、大きな事件や出来事を伴わない何気ない日常を淡々と描写している点が特徴とされる

ただ美少女たちがキャッキャ・ウフフして日常を過ごす様子を描写し、その空気感を楽しむ漫画、アニメ群。

00年代後半のオタク文化を代表する、この『日常系』の大きな特徴として

恋愛要素の排除」があります。

 

なぜ『日常系』は”恋愛”を排除するのでしょうか?

 

それは『日常系』の目的は、ただ魅力的なキャラクターたちが織りなす他愛のないエピソードの積み重ねから浮かびあがってくる”関係性”そのものを楽しむところにあるからです。

 

対して、ラブストーリーは”物語”として「主人公がヒロインと結ばれる」という結末へ向かって、これまで築き上げてきたキャラクターたちの”関係性”を必然的に変化させようとします。

この構造は『日常系』の求めるもの、「関係性の愉楽」という欲望に対する異物でしかなく、邪魔者でしかない。

そして”恋愛要素”は仕掛けられた時限爆弾のようにいずれどこかで爆発し、いつまでも続いて欲しい平穏な”日常”を破壊してしまう。

これは”恋愛要素”だけに限らない”物語”の構造に由来するものであるがゆえに、結果として『日常系』はできる限り”物語性”そのものを忌避しようとするのでした。

 

 

こうした『日常系』の源流として、その名が必ず挙げられ、いまだに数多くの作品に影響を与え続けているSFギャグラブコメの名作、

『うる星やつら』

 

 

 

 

 

 

 

 

この作品、今さら説明など不要でしょうが、

友引町というごく平凡な町の日常に宇宙人や異生物、奇怪な人物たちが次から次へと現れては非日常のおかしな事件を巻き起こしていくスラップスティック・コメディ。

そのドタバタの繰り返しの中で、追いかけるラムと逃げるあたるの終わらない鬼ごっこがいつまでも続く。

「日常化した非日常」のユートピア。

 

この世界観をクローズアップして批評的に作品として表現してみせたのが、押井守監督の『ビューティフル・ドリーマー』な訳ですが、

いつまでも始まらず、だから終わることもない文化祭をみんなでわちゃわちゃ作り続けるような世界、そんな「関係性の愉楽」の”永遠の戯れ”こそが、『うる星』という作品のテーマでした。

 

そこで注目したいのは、この作品はラブコメでもあり、『日常系』が忌避した”恋愛要素”をしっかり取り込んでいるにもかかわらず、先に述べたような「関係性の変化」それによる「関係性の破壊」を起こさずに、周到に回避している点。

普通のラブストーリーは主人公がヒロインとの恋を成就させるのが物語の着地点となるのですが『うる星』の場合はそうではない。

 

実は第一回のあたるとラムの「鬼ごっこ」であたるがラムを捕まえた時点で、そこでふたりの関係は着地しちゃってるんですよね。

ただ高橋留美子の上手いのが、”浮気性”のあたると”一途”なラムというキャラクター付けによって、”恋愛”の浮遊する愉楽のみを残しながら、それを”成就”として物語を終わらせないようにしている。

そしてそれが終わらない鬼ごっことして、”永遠の戯れ”の「場」を生みだしているという。これはホントすごい発明でした。(さすが劇画村塾出身!キャラ立てこそが全て!グラサン

 

しかしそんな『うる星』であってもアニメシリーズでは、この関係性が”恋愛要素”によって崩されることがしばしばありました。

いつまでも浮気ばっかりで関係が進展しないあたるに対しラムが暗く落ち込んだり、メソメソ泣いたり……”恋愛”に思い悩むシーンがあるたびに、「ラムはそんなんで泣かへんやろ」と原作とのギャップに居心地の悪さを感じていたのですが、”恋愛”を掘り下げて「リアル」に描こうとすると、すぐさまこのように重苦しい”関係性”のブラックホールに引きずり込まれてしまうんですよね。

 

なぜラムはふわふわと浮かんで空を飛び回るのか?

 

それは”恋愛”という重苦しい心の重力から解放されて、ただ”関係性”の間を軽やかに浮遊し続ける自由さの象徴だから。

 

ただこの自由さは「リアル」ではない。

私たちの感じる「リアル」は常に、私たちが抱く自由な「愉楽」という「欲望」に”意味”という足かせを嵌め、”物語”という地平に引きずり落とすことで、「理解」し、「解釈」し、「共感」可能なものにしようとするからだ。

 

こうした不自由な”物語”の重力に頽落することなく、己の「欲望」を生々しく「あるがままの欲望」として、”恋愛”を自由に表現することはできないだろうか。

 

この欲求を具現化すべく生み出されたのが、ちょうど『うる星』が連載開始されたのと同時期に発生した漫画ジャンル、

『やおい』でした。

そして、この『やおい』もまた『日常系』の源流の一つであると言っていいでしょう。

 

話の「ヤマ無し、オチ無し、イミ無し」の頭文字を取って「ヤオイ」と呼ぶ、

これは手塚治虫がそういった”物語”の必要条件を欠いた「ダメな漫画」の例として名付けた造語が起源だという説がありますが、

先に述べたような”物語”の不自由さから己の「欲望」を解放すべく意図的に”物語性”を排除して、純粋にキャラクター同士の”関係性”のみを楽しもうとしたのが『やおい』というジャンルの始まりでした。

 

ところで、この『やおい』が描く”恋愛”のほとんどが男性同士の同性愛であるというのも注目すべき点です。

 

なぜ『やおい』は男性の同性愛を描くのか?

 

「ホモが嫌いな女子なんていません!!!!」

という歴史的名言はともかくとして滝汗『げんしけん』

 

『やおい』が「関係性の愉楽」という欲望を解放するために”物語性”を排除の対象としたように、作者及び読者と同じ性別である”女性”の存在もまた、欲望の解放を阻害する不純物となってしまうからではないだろうか。

自分と同性の”女性”キャラクターは、どうしてもそこに自己を投影してしまうか、あるいは自己と比較してしまうか、そうでなくとも否応なくその”女性”をきっかけにして、欲望する「理想の”関係性”」の隙間に「自意識」を紛れ込ませてしまうからである。

 

現実に生きる自分。

理想どおりにはいかない自分。

恋愛をして傷つく自分。

”女性”としての自分。

”性”というものに縛られている自分。

そんな”自分”からも解放されて、自由に欲望の世界を飛び回りたい。

”女性”という性の抑圧からの解放。

そんな願望が『やおい』には乗せられていた。

 

だから『やおい』で描かれる”男性”とは、実際の性としての男性ではなく、

”女性”ではないもの」としての性、という意味合いで捉えるべきだろう。

 

「”女性”ではないもの」たちの関係性には”女性”である”自分”が立ち入る隙間はない。

したがって”自分”はあくまでもその関係性の輪の外側にいて、自分が傷つけられることのない安全な場所で、「理想の”関係性”」を壊すことなく、それを永遠に愉しみ続けることができる。

「自意識」という「物語の重力」からも解放されて、ただ純粋な欲望だけを自由に愉しみたい。

”歴史的”、”物語的”に抑圧されてきた”女性”の欲望のラジカルな解放運動。

 

これが『やおい』という表現の本質だったのではないでしょうか。

 

そしてこの『やおい』から”性sex”そのものをも排除していく方向で、ただ”関係性”が生み出すシチュエーションに純化していくようにして、『アンソロジー』『SS』といった同人誌文化へ広がっていき、さらに、より端的にシチュエーションのみを四コマやイラストで描く『pixiv(ピクシブ)』絵師たちの作法も加わって、その流れが『日常系』へと繋がっていった。

 

このような『日常系』の系譜に通底しているのは「いかに”自意識”によって抑圧されている”欲望”を解放して自由になるか」である。

そのために”自意識”そのものを作品世界と関わらせないように、”自意識”を感じさせるような要素(”物語”、”恋愛”、”性”……)にはフィルターをかけて全て排除するようになっていった。

 

結果、そこで描かれるのは「誰も傷つかない、優しい、安全な世界」。

そんな安心・安全な世界を、外側の安心・安全な場所から、「好き」でも「愛してる」でもない、対象と直接関わろうとはしない「萌え」という感情で眺めることで、”恋愛”とはまた違った心の充足感が得られるコンテンツとして、ここまで発展してきたのでした。

 

 

 

この「誰も傷つかない、安心・安全な世界」=『日常系』が、とりわけ00年代後半に流行した背景にも着目したい。

 

まず、『ラブコメ』というジャンルが発展していくに従って、そこで描かれる”自意識”が肥大化の一途を辿り、過剰になった自意識によって互いに傷付けあい、関係性を壊していくような作品が多く作られるようになっていった。その”重さ”に耐えられなく嫌気がさしてきた。その反動が大きかったのではないか。

 

そしてそこには時代の変化や社会状況も大きく関わっている。

 

『日常系』に至るまでの90年代半ばから00年代半ばにかけて。

バブル崩壊に始まりテロや災害などによって経済が急激に収縮し社会全体が混迷していった、不安に満ちた暗い時代だった。

従来までの価値観が突如として崩れ転換していく世の中で、社会のあり方や個人としての生き方の問い直しを迫られた時代でもあった。

 

そしてこの時代はちょうど「就職氷河期」と呼ばれる時期ともピッタリ重なる。

極々僅かの採用枠をめぐって、ほんの一握りの「勝ち組」とその他大勢の「負け組」とにふるい分けられる苛烈な生き残りゲームに強制参加させられた若者たち。

「今からちょっと殺し合いをしてもらいま〜す」な『バトル・ロワイアル』や、「負け組」に落ちたところからいかに機転を利かせて勝ち上がっていくかの『賭博黙示録カイジ』といった作品が生まれ、大ヒットしたのはこうした時代の様相をつまびらかに反映していたからに他ならない。

 

勝つか負けるか。殺るか殺られるか。

 

そして、自分は何に選ばれ、何を選ぶのか?

 

選ばれなければ「負け」

選択を誤れば即、死亡。

 

人生がいきなり『スペランカー』級の「クソゲー」に変貌してしまったあの時代。

 

「人生は選択の連続である」という格言があるが、選択肢を誤ればすぐさま”BAD END”になるような不安に満ちた、余裕の無い、まさに”社会の底が抜けた”時代だった。

 

あの時代ほど”選択”というものを意識させられ、その重みを感じさせられたことは無かったんじゃないかと思う。

 

肥大化した”自意識”が、過酷な”選択”の連続に晒され続ける。

否応なく、突如として襲いかかってくる”選択肢”

正体不明の””=”他者

だが、それを選択した己の”意志”を嘲笑うかの如く、あらがいようのない超越的な”運命”によって己の人生が”選ばれて”しまう。

 

このようなことを意識すればするほど、”自意識”はその自己中心性を強めていき、本来”客体”としてある”世界”そのものをも取り込むようにして内在化させ、

 選ぶ / 選ばれる

の間に生じた、耐えがたい不均衡からの回復を図ろうとする。

 

そうした”自意識”の動きを具現化するようにして生まれてきたのが、アニメ

『新世紀エヴァンゲリオン』に端を発した『セカイ系』というジャンルだった。

 

先に挙げた『やおい』が「”自意識”という”物語”」を徹底して排除することでその欲望を解放しようとしたのに対し、

この『セカイ系』はむしろ進んで「”自意識”という”物語”」の重力に引かれるがままに深く潜り込み、その中で欲望を解放しようとした、ちょうど真逆のベクトルに向かっているのが興味深い。

それは『やおい』では排除された「異性との”恋愛”」こそを『セカイ系』は起点としているのだから真逆になって当然といえば当然なのだが、

『セカイ系』の場合も「客体としての世界」=「自分が生きている現実社会」を排除することで、”自意識”がもつ客観性を無効化させ、世界を主観性でベタに塗りつぶすやり方で、「自分」を傷つかない「安全な場所」においている点に類似性が見られる。

また目指す場所も”物語”それ自体ではなく(物語はむしろ破綻する方向へ向かい、心象風景の連なりだけが残る)やはり結局は「自分」を取り巻く「関係性の愉楽」をいかに味わうか、の欲望を問題にしている点でも同じである。

両者は背中合わせの関係にありながら、対立するような存在ではなく、同じ系譜から派生してきた作品ジャンルだった。

 

この『セカイ系』と同時期に隆盛したジャンルとして、

『美少女ゲーム』もまた無視できない存在である。

 

『セカイ系』と『美少女ゲーム』は非常に密接に互いに影響を与え合って発展してきた。

『セカイ系』が主に「キミとボク」の関係性を問題にしているのに対し、『美少女ゲーム』は常に「キミ”たち”とボク」の問題であり、それは「選択」の問題を構造的に浮き彫りにするものであった。

複数のいろんなタイプのヒロインがいて、その中から好きなヒロインを選んでアプローチしていくことで物語のルートが分岐していき、エンディングが変わる。

自分の”選択”によって相手の行動が変わり、世界が変わる。

このインタラクティブ性こそが漫画やアニメにはないゲームというメディア特有のものであり、この特性を利用することによって従来の漫画・アニメが抱えていた”物語の重力”からの解放を達成させた。

自分が望むような結果、ストーリー、世界になるまで何度でもやり直すことができる。そしていくつも用意されたマルチエンディングの中から自分の望むエンディングを選び取ることができるし、並列的に楽しむこともできる、”物語の重力”に縛られない自由がそこにはあった。

 

そこでは自分は常に「選ぶ」側であり、ゆえに「選ばれる」という”他者性”が無効化される。このことによって「安全な場所」が生まれる。

「選択」の問題において、「選ぶ/選ばない」ことよりも、人は「選ばれない」ことに深く傷つき苦しむ。

選んだ結果がどんなに酷いものであっても、まだそれは能動的な自己責任の行動の結果として受け入れやすいが、「選ばれない」ことは自己の範疇を越えたところからやってくる超越的な力であり、その力の前に人は無力であり、ゆえに自尊心をいたく傷つけるものであるからだ。

「就職氷河期」に現実で数え切れないほどの”不採用”という「選ばれない」を突きつけられ続け、ボロボロに擦り減った自尊心を抱えた当時の若者たちにとって、

だからこそ”客体性”や”他者性”をオミットした『セカイ系』や『美少女ゲーム』が用意してくれる「安全な場所」は、そんな傷ついた心を癒すための退避所として多くに受け入れられたのだった。

 

だが、そんな「安全な場所」も個々の作品を積み重ねていくにしたがって、その虚構が綻びだして、そこに内包していた欺瞞が漏れ出してくる。

 

「客体としての世界」を主観で塗りつぶそうとした『セカイ系』は”現実社会”との接点を失っていくあまり、そこで語られる物語はリアリティを失ったただの「妄想」へと頽落し、その物語はどこへも着地できずに破綻してしまうようになる。

 

江川達也の恋愛漫画『東京大学物語』

1992年から始まる連載初期は普通のラブコメだったのが、時代が暗く陰っていくのに合わせるようにしてキャラクターたちの”自意識”が肥大化していき、そこに隠蔽されていた欲望、エロティシズムを過激に暴露する描写が画面を覆い尽くすようになる。そして行き着いた果てが最終回の「妄想エンド」。

これまで語られてきた物語は全て二人の関係が始まる前の(始まらないかもしれない)、お互いの”エンドレス妄想”だったというオチ。

これこそまさに『セカイ系』が望むような、客体を主観で塗りつぶした「キミとボク」の「安全な場所」を突き詰めていった”成れの果て”、として批判的に表現した結末だった。

この作品はもちろん『セカイ系』の定義からは外れるものの、あの時代の精神性の本質的な部分を反映した『セカイ系ラブコメ』の極北的存在だったと思う。

(それにしてもこの『セカイ系』の着地の出来なさは、『エヴァ』が四半世紀もかけてようやく終わるんだか、終わらないんだか……が表していますね。とにかく近日公開(?)の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ』が楽しみです)

 

また『美少女ゲーム』についても、”他者性”をオミットする「マルチエンディング」という世界観は、その構造自体が自身を相対化してしまい、やがてその世界の存在を揺るがしてしまう。

いくつもの違ったストーリー、エンディングが用意されているが、それらは全て偽りの物語であって、そのどこかに真実の物語「トゥルーエンド」が隠されているのではないかという可能性が生み出す疑念。

 

今年の秋にリメイクが放映されるアニメ『ひぐらしのなく頃に』(2006年放映)はこの「マルチエンディング」のゲームの構造を物語全体の構成に取り込むことで、いわゆる『ループもの』に新たなドラマツルギーの効果をもたらした。

同じ時間軸にある物語が何度も繰り返されることから生じる”ズレ”。

コピーのコピーはエントロピーの増大にしたがって繰り返すたびに劣化=”ズレ”が大きくなっていく。同様に、同じ時間の同じ物語を繰り返しても全く同じものにはならないのではないかという世界観。

だが、そこで生じる”ズレ”、変化こそが、一旦起こってしまった悲惨な”現実”を全て”偽りの物語”として葬り去り、我々の理想とする”真実の物語”へと導いてくれるのではないか。

諦めずに何度も繰り返し挑戦し、正しい選択をしていけば、やがて「あるべき世界」=「正解」へと辿り着けるのではないかという希望を感じさせた。

 

しかしそんな明るい未来への希望も、あまりにも非情な”現実”を前にしては、途方もない繰り返しを強要されては徒労に終わることばかりを何度も経験させられてしまう。

奇しくもちょうど東日本大震災が起こった2011年春に放映されたアニメ『シュタインズ・ゲート』ではこの途方もない繰り返しの絶望感が描き出された。

主人公、岡部がヒロインまゆりの死を回避するためにタイムリープをしてやり直そうとするが、何度やり直してもその悲惨な死を回避することができない。その度に岡部は惨劇を経験させられては精神を削られるのを延々と繰り返すことになる。

この絶望的な”無間地獄”の果てに、まゆりを救うためには、もう一人のヒロイン紅莉栖の死が条件となることが明らかになり、岡部はこの大切な二人のどちらを救うかの過酷な”選択”を迫られることになる。

こうして、正しい”選択”が正しい世界へと導いてくれるという希望は、己の意志を越えたところから突如としてやってくる「運命」という名の圧倒的な”他者性”に「選ばれる」ことによって脆くも崩れ去るのだった。

 

常に「選ぶ」側でいることで誰にも選ばれない「安全な場所」を得ていたはずが、この「選ぶ」行為そのものが持つ残酷さを「運命」によって突きつけられることでその立場が揺るがされる。

2005年放映の『エロゲー』原作のアニメ『SHUFFLE!』は、原作ゲームの方は恋愛ものが陥りがちな「どろどろした人間関係の悲劇」を、その「マルチエンディング」性によって回避して「安全な場所」を確保していた「理想的なラブコメディ」だったのに対して、アニメ版では従前の「三角関係もの」に回帰させてこの「選ぶ/選ばれない」問題に焦点を当てようとした。

 

誰かを「選ぶ」ことは、「選ばれない」誰かの苦しみを生むことである。

 

このことを忘れかけていた当時のゲームユーザーたちは、「選ばれなかった」楓が虚ろな瞳で空の鍋をかき混ぜている、2ちゃんねるでAA化されるなどネット・ミームにもなった有名な『空鍋』のシーンに大きな衝撃を受けた。

あの衝撃こそ『美少女ゲーム』が提供してきた「安全な場所」の欺瞞が暴かれた瞬間であり、その足元が崩されていくようになる。

 

誰かを選んだことで生み出された数多くの「選ばれなかった」ヒロインたち。

いわゆる「負けヒロイン

 

現実社会で「選ばれなかった」氷河期世代の若者たちの避難場所だった『美少女ゲーム』で、こうした「負けヒロイン」たちに同じ「選ばれない」悲しみを与え続けていたという皮肉な結果は、やがてとんでもない伝説の問題作を生み出すことになる。

 

2007年放映の『エロゲー』原作のアニメ『School Days』の主人公伊藤誠こそが、このような『美少女ゲーム』ユーザーが隠し持っていた欺瞞の権化のようなキャラクターだった。

この伊藤誠は「負けヒロイン」西園寺世界に惨殺される最期を迎えるのだが、この誠に手を掛ける世界の両肩には、これまでの幾多の「負けヒロイン」たち全ての”怨念”が乗せられていたに違いない。

そしてこの「負けヒロイン」世界は「勝ちヒロイン」桂言葉によって殺害され、言葉は切断した誠の頭部を抱えながらヨットで海の彼方へ消えていく。

「Nice boat.」

 

 

「恋愛」とそこから生まれる”自意識”の「物語の重力」は「選択」の問題をはらみながら、このような耐え切れない「重苦しい場所」へと我々を連れてきた。

それは時代性によるところが大きいが、「恋愛」というものを突き詰めていった結果として必ず突き当たる避けられない場所でもある。

 

初めはただ「恋愛」のときめきを味わいたかった。

ただそれだけのことなのに、「重力」に引かれて、気がつけば全く望みもしなかった「恋愛」の極北の地に立たされている。

辛く厳しい現実を忘れさせてくれるような楽しい「恋愛」のときめきに酔うことも許されず、それどころか、より厳しい”現実”を突きつけてくる「恋愛」などもういらないのではないか?

このことを思い知らされた者たちは、「恋愛」とそれにまつわる様々な「重苦しいもの」全てを投げ出して、『日常系』というユートピアに向けて、一斉に船を漕ぎ出した。

「Nice boat.」は時代が「恋愛」から撤退して『日常系』へと向かっていく過程における一つの象徴的な事件だったと言えるだろう。

 

 

 

 

 

と、こうして『日常系』に至るまでの過程を長々と考察してきて、肝心の『からかい上手の高木さん』についてはほとんど語っていないわけなのですが……滝汗

 

ひとまずここで、なぜ私が『〜高木さん』という作品に惹かれるのか、その理由を語っておきましょうニヒヒ

 

それはきっと、私が中学生の頃、「高木さん」のような隣の席の女の子に恋をしていた経験があったからなのでしょうね///爆  笑

 

その女の子の名前は「Yさん」としておきましょう。

Yさんはその頃売り出し中のアイドルだった「岡田有希子」にどことなく似た感じの小鼻のかわいい女の子でした。

それは当時私が岡田有希子さんのファンだったからそう見えていただけかもしれませんが。自分にとってめっちゃどストライクなタイプだったのは間違いない。岡田有希子さんの悲しい事件についてここで触れるのはやめておきましょう…)

家が美容院の娘で、当時珍しかった”茶髪”をしていたおしゃれなところは「高木さん」を彷彿とさせますね。

 

そんなYさんとの出会いは中学に入学した初日のこと。

入学式が始まる前の教室に入ったとき、真っ先に私の目に飛び込んできたのがYさんの姿でした。そこだけ明らかにライティングが違うというか、オーラが違うというか、彼女の座っている場所だけが輝いて見えて、それは完全に「一目惚れ」でした。

この中学校は2つの小学校から生徒が集まってきていたので、違う小学校のYさんのことは全く知らなかったんです。

で、「なんて名前の子なんだろう。どんな子かな〜。隣の席にならないかな〜」なんてことをチラチラ見ながら考えてたら、そのあとの席決めで

なんと!本当に隣の席になったんですよ!びっくり

(なんという引きの強さ!幸運の持ち主!! というか、そこで私の運は尽きたのかもしれませんが……ゲロー

 

そしてそれからの毎日はバラ色のステキな中学生ライフでしたラブ

Yさんとは自然と仲良くなり、シャーペンの芯や消しゴムを貸し借りしたり、教科書忘れたら見せあったり、自習時間は勉強そっちのけで二人でずっと他愛のないお喋りを続けたり、授業中もこっそり二人でノートに筆談を続けたり、意味なくノートの切れ端で手紙をやりとりしたり……。

高木さんと西片みたいに「からかい勝負」なんかはしなかったけど、作中であるみたいになぞなぞやクイズを出しあって相手を困らせたり、思い切って思わせぶりなこと言って相手を照れさせたり。

『〜高木さん』を読んでたら「あぁ〜〜こんなことあったな〜〜///」なんて、”あの頃”のときめいた気持ちがまざまざと思い起こされるんですよね。

 

しかし、そんな私も西片に負けず劣らずウブで奥手なものですから「告白」なんてとんでもない。この胸に秘めた想いなどは到底伝えられるはずもなく、ただの隣の席の仲良いクラスメートというラインは越えられないままバラ色の日々は過ぎてゆき……。

次の席替えではさすがに漫画のようにはいかず、席は離ればなれになって、あの魔法のような二人だけの空間も夢から醒めるようにかき消えてしまった。

 

それからも頑張って何かにかこつけては話しかけたりして関係が途切れないようにしたり、授業中もYさんの横顔を遠くから眺めつづけたりしながら……

 

また再び彼女の隣の席になったときは神に祈りましたね!(やっぱり私、持ってるんじゃないの!?ニヒヒ

そして再びあの魔法の空間も復活して、じゃれ合うような二人のやりとりも再開したのでした。

千載一遇のチャンス。今度こそはちゃんと伝えるべきなんじゃない?

 

しかしヘタレな私はやっぱりクラスメートのラインはいつまで経っても越えられず。むしろそのラインを越えるかどうかのギリギリのところをふわふわと飛んでいられるのが心地よくて、それで満足していたのでした。

 

やがてそのまま2年生になり、クラス替えではやっぱり漫画のようにはいかず、クラスは別々に。

この一年間は私にとっては”暗黒期”ゲッソリ すっぽり記憶から抜け落ちちゃってます……チーン

 

そして3年生に上がったクラス替えでは、また再びYさんと同じクラスに!!キラキラ

おお、神よ!神は我を見放さなかった!!

 

この一年間は最高に楽しいステキな一年でした。

そこでもやっぱり一回だけだけど隣の席になることができたし、Yさんを含む男女数人のグループができてその中でみんなでいつもわちゃわちゃできたし、修学旅行も一緒だったし、まるで青春ラブコメまんまのような日々を過ごすことができた。

 

そんな中でも一番記憶に残っているエピソード。

体育祭のダンスの練習で体育館に集められ、私は偶然Yさんとペアを組むことになった。

ダンスのためにペアは手を繋いで、ってところで何やらトラブルがあったらしく、全員そのまま一旦待機することになった。

それで私たちはその場に座って待機することになったのだが、普通は繋いだ手は離すだろうが、私はその繋いだYさんの手を握ったまま離そうとしなかった。

そして彼女もその手を振りほどこうとすることなく、ずっと握りかえしてくれていた。

 

「手が冷たい人は、心があったかいんだってね」なんて『〜高木さん』にも出てきたのとまるっきり同じ話をして、「じゃぁ、手が温かい○くんは冷たい人だね〜」なんてこと話しながら、トラブルが解消するまでの5分か、10分か(私にとっては永遠のように長く感じられたが)結構な長い時間、ずっと手を握り合ったまま離さないでいた。

そんなにずっと手を繋いだままのペアは当然、私たちだけしかいなかった。

そんな様子を見る人は私たちをどう思っただろうか。

しかしどう思われようと、

「かんちがいされちゃったって、いいよ。キミとならなんて、思ってたって言わないけどね。」

なんて歌の歌詞、そのままの気持ちで私はいたし、たぶん彼女もそうだっただろう。

 

『〜高木さん』の主題歌『言わないけどね。』を聴くたびに、あの時の彼女のやわらかい手の冷たさがよみがえるのでした。

 

 

 

アニメ『からかい上手の高木さん』第二期では、シーズン全体を通して

 「手を繋ぐ

がテーマでした。

 

「じゃぁ、私の手をつなげたら、西片の勝ちでいいよ。」

なんてことを突然言われてドギマギする西片は、水切り勝負をしに行った川縁で川に落ちそうになった高木さんの手をつかみ引っ張って助けた。その反動で自分が川に落っこちながら。

そんな西片に「手、つないだよね。さっき。」

照れまくって「つないだとは言わないよ!あれは。」と否定する西片。

「じゃあ、西片の勝ちはナシで。」

 

……帰り道。「じゃ」と別れた高木さんは自転車を漕ぎながら呟く。

 

「負けたと思ったのにな……」

 

 

そんなエピソードで始まる第二期。

他にも腕相撲で高木さんの手の柔らかさを意識して負けたり、林間学校のフォークダンスでもうちょっとのところで手を繋げなかったり、身体測定勝負の握力測定で「私の手を握るみたいにしっかりね」なんて言われて照れて失敗したり。

 

「友達以上、恋人未満」の近くて遠い距離をどうやって縮めていくか。

 

そして、高木さんは西片に”夏祭り”に誘ってもらえるように、その誘って欲しい気持ちをぼんやりと西片にアピールします。

夏休みの家族旅行が夏祭りの日にちと重なって、そのことでお母さんと喧嘩をしてしまった高木さん。

ホントに西片が誘ってくれるかもわからない夏祭りのことで喧嘩をしてしまって、でもやっぱり西片と夏祭りに行きたい。でも自分からは誘えない。やっぱり西片から誘って欲しい。

そんな不安に揺れる気持ちを抱えながら、そんな不安はおくびにも見せないで、いつものように西片をからかって。

 

「西片は夏祭り、誰かと行くの?」

「いや、別に決めてないけど」

「わたしも。予定、空けてるよ」

「ん?旅行、ずらしてもらったのに?」

「誰かさんが誘ってくれたら、一緒に行きたいなーと思って。

……よくからかわれる誰かさん」

震える指先をごまかしながら、そう言うのが精一杯な高木さんでした。

 

そしてエピソード『約束

 

”夏祭り”の日にちも近づいたある日。

釣りに行くために自転車を漕いでいる西片の前を、両手に重そうな荷物を持って歩く高木さんがいました。

追いついて声をかける西片に、

「もしかして、手伝ってくれるとか?」

「うん?まぁ……」

「ありがと」

にこやかに荷物をドサッと自転車のカゴにのせる高木さん。

そしてふたりは並んで歩きながら、何気ない、他愛のない会話を交わしていきます。

 

何気ない会話が進むなか、西片の頭の中である言葉が何度もよぎっていました。

 

 ”夏祭り”

 

どれだけ鈍い西片でも、あそこまで言われたら高木さんの気持ちに気づかないわけもなく。かといってどうやって切り出せばいいものか。本当に誘ってもいいのか。単なるいつもの”からかい”じゃないのか。そうだとしたら恥ずかしすぎて死ねる。

そんな思いが頭の中をぐるぐるとかけ回りながら、全く関係のない「夏休みの宿題の自由研究、もう決めた?」なんて話をして、

 

「……そっかー。早く決めないと終わっちゃうね。夏休み。」

遠くを見ながらそう呟くように言う高木さん。

「いや、まだ半分残ってるし」

「迷ってたら、あっという間だよ。」

「そうかな……。」

「うん。……きっと、……あっという間。」

西片の方を見て、ちょっと寂しげな笑みを浮かべる。

 

あとはただセミの鳴き声が響き渡る道をふたりで歩いて、やがて高木さんの家の前に着いてしまって、それでも西片は何も言えず……

 

「……お礼。」

缶ジュースを差し出す高木さん。

「……ありがと。」

それを受け取って自転車のカゴに入れ、黙って走り去る西片。

その背中を見送って、うん。と小さく頷いて、家に入ろうとする高木さんの、背中の方から急いで近づいてくる自転車の音がする。

急ブレーキの音。

振り返る高木さんの前に、伏し目がちに立つ西片の姿があった。

 

「西片?」

 

「……あの、……高木さん。

……夏祭り。

 

……一緒にいかない?」

 

そのセリフに目を見開いて驚く高木さん。

そして満面の笑顔で、

 

 

 「うん。」

 

 

 

これで二人の関係性が変わったわけではない。

続く、最終回のエピソード『夏祭り』では、西片はあくまでも”友達”として一緒に夏祭りに行くだけで、これは「デート」ではない、と主張する。そんな西片に高木さんは、

「デートっぽいことできたら、西片の勝ちでいいよ。」

と言ういつもの”からかい勝負”を仕掛ける。

 

そんなふたりの”夏祭り”がどうなるかは、アニメ本編を観ていただくとして、

この作品が『日常系』の系譜にある『日常系ラブコメ』であることはお分かりいただけると思う。

 

この『〜高木さん』には『日常系』に至るまでの過程で挙げたような『恋愛もの』にあった「三角関係」や「浮気」や「失恋」といった「どろどろした人間関係の悲劇」は一切排除されている。そして、軽やかに浮かんで飛び回れる自由な精神を「重苦しい場所」に頽落させる「選択」の問題もオミットされている。

 

『日常系』とは、過酷な「恋愛」とそれにまつわる「物語の重力」からの撤退戦だった。

だが、一旦放棄した「恋愛」ではあったが、どうしても捨てきれないものがあった。

 

『日常系』が獲得した「誰も傷つかない、優しい、安全な世界」は限りなく「安全な場所」を提供してくれたが、その外側の場所からは世界の内側に手を伸ばして愛おしい対象に触れることすらできない。ただ「萌え」という視線で対象を観測し続けるだけの「安全な場所」とは、いわば”彼岸”、”あの世”に等しいものであり、そんな場所に「生きる」喜びを見出すことなどできようはずがない。

 

かくして『日常系』という”彼岸”から、再度生きた世界としての”此岸”へと戻ろうとするにあたり、もう一度取り戻そうとする「恋愛」の形は、自己中心性の欲求であり「生」の欲望である”エロティシズム”を否定はしないまでも慎重に巧妙にマスキングしながら、自己超越の欲求であり「美」の欲望である”プラトニズム”を徹底して貫こうとするものになる。

 

それは真の「恋愛」に育つ前の萌芽のようなもの、あるいは「恋愛」における「生」と「美」の一部分をうまく抽出したエッセンスのようなものである。

このような「恋愛エッセンス」を『日常系』の「安全な場所」を侵害しないように、絶妙なバランスで配置しているのが『日常系ラブコメ』の姿である。

 

そんな「恋愛」は現実的じゃない。全く”リアル”ではない。という批判が必ず挙がるだろうが、そんな批判は意味をなさない。

現実の「恋愛」のどうしようもない過酷さから撤退することから生まれてきたのが『日常系ラブコメ』だからだ。

よく「尊い」と表現されるようなあの感情、「恋愛エッセンス」の”ときめく”輝きを感じさえすれば、それがリアルであろうがなかろうがどうでもいいことなのだ。

 

そしてこの「恋愛エッセンス」が現実にはあり得ない、絵空事にすぎないということは決してない。

 

「恋愛」には様々なレベルでの喜びがある。

「想いを遂げて愛を誓い合う」喜び。「sexをして一つに溶け合う」喜び。「暮らしを共にして生きていく」喜び。「共に子を生み育てる」喜び……。

そのような様々なレベルの「恋愛」の喜びの中でも、「恋愛エッセンス」の輝きに感じる”ときめき”という歓喜こそが「恋愛」の最も根源的で本質的なものではなかっただろうか。

私が中学生の時に抱えていたYさんへの想いは「恋愛」のほんの始まりの未熟な感情に過ぎなかっただろう。

それでも二人で作り出していたあの”魔法の空間”は確かにあったし、そこから生まれる”ときめき”の喜びも確かにあった。

そして互いに握り合ったあの手の温かさと冷たさも現実に存在する”本物”だった。

 

そんな”ときめき”からもう一度始め直してもいいんじゃないか。

次のステップに進めば進むほど、関係性は複雑化し、見たくなかったものが次々と現れ、すぐさま「物語の重力」に頽落し、輝きを失っていくものだとしても、それでもまた初めからやり直せばいい。

 

この繰り返しが、何度繰り返しても徒労に終わる絶望的な”無間地獄”だったとしても、

「恋愛」のみが成しうる「生」と「美」とが調和された歓喜の瞬間、その”ときめき”は揺るぎのない絶対的なものであり、我々が生きている限り何度でも味わい尽くすべきものであるのだから。

 

 

 

 

 

 

さて、それでは最後に、あの中学生時代の私の恋愛の結末がどうなったかを語って、このブログの投稿を締めたいと思います。

 

 

あのYさんと手を繋ぎ合った日から、二週間ほど経ったある日のこと。

 

私は偶然、学校の校舎裏でYさんと学校一のヤンキーで有名だったFとが二人並んでしゃがみ込んで、何やら話し込んでいる場面に遭遇したのでした。

とても声をかけられるような雰囲気ではなく、私はしばらく二人の様子を窺い、そのまま気づかれないよう静かにその場を後にしました。

 

それから数日後に、私は風の便りに、YさんとFが付き合いだしたという事実を知ることになるのでした。

 

当時のヤンキーといえばスクール・カーストのヒエラルキーにおいて頂点に位置する存在でした。そしてYさんはアイドル級に可愛くおしゃれなイケてる女子。

思い返せば体育祭でFはクラスの応援団長を務め、Yさんもまた同じくチアリーダーとして活躍していた、まさに”ジョックス”を地でいく二人でした。

 

この体育祭を機に二人は急速に距離を縮めていた、そんな中での私とYさんとの「手繋ぎ」。

きっとFもこの私たちの「手繋ぎ」を見ていたに違いありません。

そしてそれがFの嫉妬心に火を付け、あの校舎裏の告白へと駆り立ててしまったであろうことは想像に難くないでしょう。

 

そんな二人の間に「ちょっと待った〜〜〜!」と割って入れるようなステータスなど全く持ち合わせてはいない、ただの漫画オタクだった私はただ、Yさんがヤンキーにかっさらわれていくのを呆然と見ているしかなかったのでした。

 

そして、それ以後、Yさんとの間に微妙な隔たりを感じるようになり、あの”魔法の空間”はもう二度と現れることもなく、そのまま中学卒業を迎え、それぞれ違う高校へと進学してそれっきりになってしまったのでした……。

 

 

ホント、現実って厳しいよね。

 

 

                              おしまい!グラサン