ワーナー・マイカル・シネマズりんくう泉南にて『ノルウェイの森』を鑑賞してきた。
御存じ、国民的にとどまらず世界的に傑作と名高い村上春樹の原作を映画化したもの。
文学と映画は相容れないもの、だけれどそれらを受け止める器は同じもの。
この作品の直子(菊地凛子)と緑(水原希子)、その間で揺られるワタナベ(松山ケンイチ)の関係は捉えどころのない。
随所に散らばる文学“的”な台詞の数々。
すべてバラバラのようであるが…
それらをただ一つ繋ぎとめるもの、それは<時間>。
「あの頃ぼくらは…」と振り返ることのできる、確実な時間。
そして「きっとこの先も…」と期待することのできる、不確実な時間。
これらの間にあっては、どうやらセックスも流動的なものなのかもしれない。
そのずっと先に確かな<死>が待ち受けていても、「強く生きよう」と思える潔さ。
その潔さが創り出す世界は、決して白銀世界ではない。
周りからみればドロドロとした、一切の気味悪さをも内包するような、捉えどころのない悪印象。
「好きな人いるの?」
「いるよ」
ワタナベの潔さは本物かもしれない。
最初から最後まで一貫しきったワタナベに対して、彼を取り巻く人々は流動的だった。
望みとは裏腹の…
かといって、期待はずれではなかったかもしれない愛し方が生まれては消えていった。
大人にしか分からない、これこそ<躍動感>と<喪失感>、そして<悦び>と<哀しみ>をシンプルすぎるほどに感じさせてくれる映画だった。
たしかに文学作品を映画化するなんて、とても骨の折れる作業であり、多くは批判を伴う結果になってしまっている。
しかし、彼らに限って、「原作はどういうことを訴えてるの?」「原作で良くって映画では悪かった点はどこ?」といった類の質問には応えることができない。
それが現状のこの国の映画ファンにとっては、とても刺激的な作品となったのではないだろうか。
ノルウェイの森。
"Norweigian Wood"
ことばのあやというか…
夢中になれることばをもった女性に出会えれば、きっと自分も「(好きな人は?)いるよ」と言える日が来るのかもしれない。