『越後つついし親不知』
これは、蠍座にて鑑賞。

1963年今井正監督作品。佐久間良子、小沢昭一、三國連太郎主演。
原作は水上勉。
同郷の対照的な二人、真面目に働く小沢と、大酒飲みの荒くれ者三國がいた。
三國が、小沢の美しい妻良子を雪の屋外で強姦してしまう
さらに、事もあろうに犯された良子は、三國の子をはらんでしまう。
そこから始まる、小沢、良子夫婦の悲劇と苦悩。
一方、悪人の三國はふてぶてしくも、さらに良子にちょっかいを出して来る。

そんなドラマを、雪の越後の美しいモノクロの画面で描かれる。

とにかく、悲劇的状況に追い込まれる展開は息苦しくなる。
観ていていやになるほど。
それほど、見事な演出、と言いたいところだが、
時おり挿入される、ナレーション付きの心理描写。
何ですか、これは。
忙しい、朝の片手間に観るNHKのTV小説じゃあるまいし。

作中、何度も三國に犯されるシーンがフラッシュバックされる。
貞節な良子の苦悩をさらに深化させる演出だ。
しかし、最後のフラッシュバックのシーン。
短時間ではあるが犯されている良子の手が、三國の背中に回される
彼の欲望を、わずかではあるが受け入れていたのである。
その意味、ワシには全く理解できなかった。

映画鑑賞後、しばらく経ってからこのシーンの意味に気付いた。
良子は強姦されつつも、一時的に快楽を感じてしまったのだ。
強姦され、さらに妊娠させられたと言う、被害者としての悲嘆に苛まされ続けていた良子。
しかし、彼女の苦悩はそれだけじゃなかったのだ。
一瞬にせよ、強姦男を受け入れ、快楽すらな感じてしまった自分。
そんな、究極の自己嫌悪が、更なる絶望の渕に彼女を追い込んでいたのだ。

そんな深い意味をすぐに気付かなかった自分は、
映画評論的にもオトコ的にも、まだまだ未熟だと痛感。
強姦後の、三國の空気読めない行動も、これで納得だ。
強姦されながらも、快楽を得た彼女。
こりゃ、オレに気があるな。
もう一回出来そうだぜ。
そう思のも致し方ない。

教訓。
知り合いの女性が楽しそうにしても、自分に気があると思ってはいけません
映画は、終了後は4点だったけど、そんな深い意味に気がついて、6点。

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