久々にまともにブログを綴っています。このところパソコンに向かう気になれずにいました。
私が常に懸念していることが、「精神障害」「精神疾患」などの概念が都合のいいように使用されていることです。
解決できない不都合なことが起きた時、現在の科学では説明できないような出来事があった時、それでも何らかの説明責任を果たさなければいけない時に「精神疾患」が使われています。
「彼、彼女はなぜこのような言動に走ったのか?」
多くの人間が関心を寄せることです。
しかし、事件や事故などの様々な事象は複雑な要因が絡み合っています。言葉で正確に説明することはとても難しいことなのです。
そうした時に、
「彼は精神疾患を持っていたからです。」、「彼女には発達障害があったからです。」
これが模範解答になっています。
これらを医療や福祉の資格を持った人々や学識経験者が発言すれば、真実になります。
学術としては「論文」があります。
論文は基本的に、先行研究の考証、仮説を立てる、その仮説を裏付けるための実験などを行いデータを取る、そのデータによって仮説が立証できているかを考察する、といった流れが一般的です。
最も大切なのはやはり「どのような手法でデータを取得するのか」でしょう。
精神医学の論文で特徴的なのは、「データを取得した期間が短い」ということになります。さらには「主観的な論拠に頼っていて、論文の著者がそのことに気付いていない」ということもあります。
1、薬物療法の論文は追跡調査をしなくても論文として用いられている。
2、その他の精神・心理療法は治療者側の価値観が正義になっている。
この2点が非常に気になります。
精神医学の論文は治療を目的として書かれており、「用いられている」と言うのは、薬物の販売、医療機関の経営に用いられているということになります。
特に精神疾患患者への治療は社会保安の歴史があります。社会保安とは社会の大多数の人々の安全のことです。それを脅かすものとして精神疾患が作られてきました。つまり隔離する理由を作るためです。
かなり歴史の詳細は端折っていますが、こうした歴史を踏まえると「精神疾患」で解決させるという現象は、その歴史を逆行しています。
様々な問題や課題に対して解決のための検証や研究を放棄して、「当事者に障害があった」という責任を負わせ続けています。
人間の言動には理由があります。美徳であれ、反社会的であってもです。それらをすべて当事者に根拠を負わせて、反社会性を根絶するために当事者を排除する。
そのための「精神疾患」になっていることを私は憂慮しているのです。