「働き方改革」という言葉が飛び交っています。
きっかけとして大手有名企業において、高学歴の若い女性が過労自殺をしたニュースが注目されたことが挙げられます。
過労自殺はそれまでも毎年多くの人々が存在し続けてきたのですが、センセーショナルな印象を与える条件が重なったことで、注目されるニュースとなりました。
このことは、凝り固まった現状を打開するには自殺が有効手段であることを示すと同時に、単なる自殺では効果がないことも示唆しています。
それだけ社会という公権力に対峙することの困難さ表現しています。
では公権力が不正を行っている時にどのように対峙することが有効なのでしょうか。
「公権力」と言いますと、政府、議会、司法、官公庁のことのように捉えがちですが、実のところはそれらに所属している人たちのことではありません。
日本は民主主義国家として主権在民となっていますから、公権力を持っているのは日本国民ということになります。
ポピュリズム(populism、大衆迎合主義)とう思想傾向が注目されているのは、国民が主権を持っていることから始まっています。
主権を持っている国民を操ることを考え始めます。「傀儡皇帝」ならぬ「傀儡国民」でしょうか。
ブログというネットツールでネット社会を批判することに抵抗は感じますが、ポピュリズムの成功のカギはネット社会が担っています。
多くの人々が気付いてることだとは思うのですが、現在のビジネスはネットの影響力に依存しています。顕著に表れている例として「ニュースなどの報道」が挙げられるでしょう。
世論調査自体がネットによって行われることが多くなってきました。当然ながらその結果が報道されます。
そしてニュース媒体もインターネットに寄りかかっている人々も増加してきたのではないでしょうか。「やすい、はやい、うまい」という宣伝文句を今でも覚えていますが、現代社会はそれらを追い求めてきた結果が顕著に表れています。
ニュースについても、どこよりも早くネット上にアップする競争が行われています。実はこうした競争は数年前以上前から行われてきたことですが、それがある意味成熟して社会に浸透してきたようです。
「成熟→浸透→新たな価値観の誕生」を繰り返すのが社会です。
傀儡国民を利用することによって新たな価値観が意図的に作り出されていることに悲嘆しているのです。
煽動された公権力(傀儡国民)に対峙する場合を考えると戦慄が走ります。
ネット社会により私刑が可能になり、社会的抹殺が気軽に行えるようになりました。多くの人々がこのことに恐怖しています。その恐怖を避けるために、さらなるポピュリズムに走ることとなります。
「民主主義は正しい」これは真実でしょうか。上記のような環境になりますとこの疑問が導き出されます。
国民が傀儡と化してしまうのはなぜなのでしょうか。
そもそも公権力が不正を行うことが、ありえないこととして捉えられています。それは民主主義が不正を行わことはないという概念に立拠しています。
私は公権力の不正を糾弾したのですが、私が悪者になってしまいました。この事実に対して抗う方法がありません。
伍子胥の無念さが現代にも蘇ってきます。
目を掛ける そこから視たい 滅びの日 代わる滅びに 誰を差し出す