ある日、韓国人である知人から
韓国人なら違う行動をとるだろうと
ある日本人夫婦のエピソードをきかされた。
彼女の話によれば、
ご主人はお仕事のできる方で
帰宅が終電に間に合わない時など日常茶飯事で
タクシーで首都高を走って帰るそうである。
飲んでの帰りにタクシー代を持ち合わせていないご主人に代わって
玄関先でお金を用意して待つ奥さんは、
運転手に礼を欠くこと無く
恐縮と感謝を込めた挨拶をして
ご主人と引き換えにお金を渡すとか。
知人はこの日本人夫婦の日常のワンシーンから
お国柄の違いをくっきりと抜き取って
私の同意を求めて落ち着きたかったのかも知れない。
なるほど、私も彼女側に立ち、深く頷いたのだった。
理由が仕事であろうと
奥さんの存在を「忘れた」行動が積み重なることに
多くの韓国人女性にとって穏やかさを装うことは難儀ではないかと。
日本人女性だって内心は同様に腹立たしく思ったかも知れない。
が、この日本人女性が取った行動は、本心など露にせず、
慎み深く他人(運転手)にはそんな素振りを見せるどころか、
ご主人の身柄を穏便に引き取ったのだから見上げたものである。
フムフム・・家族であってもコトを荒立てない、「和」を重んじる日本である。
一方、韓国人女性の憤慨の中味はおおよそ以下のことが挙げられよう。
1.奥さんを蔑ろにしているように映る行動の頻発
2.奥さんの承諾なしに消えてゆく高額のタクシー代
この二点をベースにした奥さんの怒りは言動に直ちに変換され、
ご主人に向けられるに違いない。
「あなたの眼中に私は在るのか」と。
日本人の対人関係ではそれが身内であっても
コトを荒立てることを嫌う傾向にある。
しかし韓国の場合、自分の思いをぶつけてこそなので「対決」を厭わない。
「対決」は「対話」であるからだ。
それによって自分の「ボール」が相手に届き、
そのボールをキャッチした相手から再び投げ返されてはじめて
「今日」を繰り返されない「明日」へいけると考える。
では韓国人との会話を成り立たせるためにどうするか。
奥さんの存在を忘れていたどころか、かけがえのない存在であるという「心」を
しっかり「言葉」なり「もの」なりを用いて伝えること!
これぞ奥さんの燃焼したハートを冷まし、コトを丸く治めるための得策ではないかと。
くれぐれも自分の招いてしまった「災い」を
「暗黙の了解」として勝手に「後始末」に走ってはならぬ。
友人の話に耳を貸しながら
一人で静かに考えた。