いつもなら自転車で駅に向かうものの、
今日は雨脚が強くて断念、バスを使うことにした。
バスが定時より数分早く到着していたのを見ると、おそらく一つ前のものが雨で遅延を余儀なくされたのであろう。いつかの大雨の日、バスを待っていた私は15分以上待たされていたため、連結で乗るはずだった電車に間に合わずかなりイライラしたことがあったので、遅延であろうが自分の予定時刻より早目に乗れたのはひどく有り難かったが…
バスは傘と人がごちゃまぜになった停留所で長蛇の客をゆっくりと吞み込んでいった。そのせいでバスの後ろでは数台の車両が気の毒にも足止めされる。
私の前に並んでいた高校生らしい女の子の番になって突然流れが止まった。ひどい混み具合に乗るべきかどうか迷っていたのだ。後ろの人たちは雨に降られながらも黙って彼女を見守っていたが、なんとか足を一歩バスの中へ踏み入れる勇気を出してくれたおかげで行列は再び流れ出し、やっと私の番になった。私はむろん電車のこともあったから何としても乗せてもらうぞという勢いで乗り込んだ。ただ果たして私の身一つ置くスペースが確保できるか、下手をして自動ドアに挟まりはしないか心配しながら。
私の背中を擦りながら自動ドアが閉まった。ちょっと怖い思いと同時にひとまず乗車成功したことに少し安堵もした。バスの中は同じ路線上のそれそれの行き先を目指して一緒に乗り込んでいる運命共同体…目をつむって私は、自分の存在も含めてこの愛おしい人々について思いを寄せた。みんなこんな雨の中、誰一人として大変な思いをし、手摺につかまり、揺られ、互いの吐息や濡れた雨具などに絡まれたってお互い様なのだ。
少しして車内を見渡すと、前方と後方にまだ余裕があることを知った。乗る人々の大変さには目もくれずに呑気に携帯をいじったり、耳栓で音楽に聞き入ったり…一瞬わが目を疑い、次の瞬間、驚きと腹立たしさを覚えた。
運転手さんはなぜ乗客たちに少しずつ詰めるように促さなかったのか、そして乗客たちはなぜ自分と同じように他人に対しても一緒に乗って行けるように気配りをしなかったのか…私は俄然として非常に落胆した。
こんな状況を前になんとも思っていないかのような顔達、ちょっと触れただけでペコっと謝るだけはちゃんとする人達…このちぐはぐな矛盾。私はここでまた日本の未来を憂うことなしではいられなかった。悲しかった。寂しく思った。
韓国なら‥‥舵を切っている運転手は大声で叫んだだろう。「뒷쪽 아직 더 비어 있어요. 뒤로 더 들어가 주세요〜: 後ろの方、まだもう少し空いていますよ。もっと後方へ詰めて乗ってくださいね〜」そしてそれと同時に乗ってくる人々の間からも「나 좀 탑시다 :ちょっと乗せてくださいね」とか「이 학생 (아주머니) 좀 태워 줘요〜: この学生さん(おばさん) ちょっと乗せてあげましょう」と乗客同士が意見し合い、その場にいる人間同士が必要に応じて助け合うのが当たり前なのだ。
乗りたい人は乗る意思を示して乗ればいいし、ここはやはり乗せるべきと判断した周りの人間がいれば、同じく周りに声がけをする。至極当たり前のことが、日本では消えている。日本の「遠慮する」とか「和を重んじる」といった‥おいおいその立派な精神の出し方、伝え方がめっぽう違うぞ〜
私が日本にいて苛立つ多くの場面は、日本ではシステマチックになっている中でしか人々は動かない傾向があるということである。例えば電車のホームなどでも体の不自由な人はシステム化された中の補助のもと、動いている。これも韓国では見られない風景の一つ。一歩外に出れば、周りには必ず人間がいて電車のホームなら尚更困ることなく、助けてくれる大人は至る所にいるのだから、それ程の心配も不安も抱く必要がない。そんな韓国ではむしろシステムは不要であり、窮屈であり、人間味に欠けた味気ないものになってしまう。
社会は多くの人達で成り立っているし、その構成員達がシステムの中でしか動かない、動けないとなると、そこから漏れてしまう諸々の事柄について我々はどう対処していけば良いのか。それはやはりその時その時の判断で人としての当たり前のココロを働かせて思いやりを持って動くことに限る。
システム化以前の、その枠組みの中に収まり切れない、だからこそそれを遥かに超えた日本のオモテナシの精神を今一度この社会に問いたい。
私がいくら平和を願って頑張って勝ち取ろうとしても、社会そのものに温かな眼差しが欠けているとしたら、私の平和は保障の限りではない。私の幸福は、隣人の幸福なしでは訪れない。
雨の日、
ずぶ濡れになったのは雨具だけではなかった。