【セブン】の映画で、次のようなシーンがある。

 モーガン・フリーマンが連続犯罪の容疑者がみつかったので、捕まえに行こうとするときの台詞である。

 『こいつは、犯人ではない。』

 『何故だ。』ブラピが尋ねる。

 『こいつには、奥がない。』

 七つの大罪に沿って連続犯罪を繰り返し、ダンテの『神曲』や『失楽園』を読み、ある一定以上の教育がある容疑者。そして、モーガン・フリーマン自身も、奥があるということだ。

 秋葉原の殺人事件の容疑者は、誰が見ても奥がない。計画性があると言われているが、小学生の遠足並の計画だ。「○月○日、遠足。○時に校庭に集合。おやつ300円まで。雨天中止。」この程度の計画性である。


 だからと言って、奥がある犯罪がいいと言っているのではない。犯罪のタイプである。


 宮崎勤の死刑の執行が行われた。彼の映像を見ると、その無表情さに改めて、驚きを覚えた。私の周りにも、無表情の人たちがいた。コンピュータの世界に生きていると、仮面のような無表情な人間と接する。

 病院で働いていたときに、情報システム部に、やはり無表情の青年がいた。何人かの医師は、私の顔を見ると、彼のことを訴えた。

 『何を言っても”はい、はい。”ばっかりで、無表情で、怖い。気持ち悪い。』こういう声だ。反対に、私は、自分が無表情でないことがわかった。安心した。

 病院という場所は、特殊なところである。

 患者は、不安な気持ちを抱き、やって来る。不本意なヤマイになり、怒りに似たものを覚えたり、落ち込んだりする。あるいは、助からないと思っていたのに、医師に助けられたと思い、何度もお礼を言い、泪を流す。

 とても、人間らしいところである。『ドラマ人間模様』である。だからこそ、なおのこと、無表情の人間に敏感になる。

 私は以前のブログで、精神病には量と質があると書いた。

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 宮崎勤と神戸の酒鬼薔薇に対しては、質的なものを感じる。あくまで、私個人の感覚なので、誤解をして欲しくない。


 1年半前にバンコクに行ったときに、イスラエルの男性と喫茶店で同席した。その喫茶店は、席がいっぱいで混んでいた。向かいに座ってもいいか、と声をかけられ、私は『どうぞ。』と答えた。彼は、私に質問した。

 『日本は、変わったと僕の日本の友人が言っていた。本当ですか?』

 『はい。』私は、拙い英語で彼に話した。親が子を殺し、子が親を殺す。あるいは、兄弟身内による犯罪が増えた、と。彼は、それは、2、3年に1回くらいでしょう、と私が大げさに言っていると思っていたようであった。

 違うことを私は説明しなければならなかった。

 彼は信じられないと答えた。

 『僕たちは、確かに、パレスチナと戦っている。けれど、それは、自分たちの家族や同じ国の人を守るために戦っているんだ。』


 また、私は、以前に医大生と付き合っていた。彼は、最初の解剖の時に吐いて、その後、何度も首無し死体に追いかけられる夢に悩まされたと話した。これが、本当なのだと思う。けれど、犯罪のニュースを見ていると、簡単に人をバラバラにする。


 我々は、一体、何と戦っているのだろうか。そして、何を求めているのだろうか。