研究テーマを紹介するためのメモ:プランC(※作成中) | RyotaFujiwaraのブログ

Ⅰ.

好井裕明は「障害者フォビア」を「わたしたちがいまだに障害者を他者として理解できない現実であり,わたしたちが障害者を他者として常識的に出会えないことからくる恐怖であり怯えであり不安」(好井2002108)と述べ,「生理的な問題」に矮小化してしまうことを批判する(好井2002).

「障害者」とは「常識的に出会えない」ということは「非―障害者」とは「常識的に出会っている」のだろうか.「非―障害者」とは「障害者」/「健常者」という二分法のもとでは「健常者」のこととなるだろう1).「健常者」とは「常識的に出会っている」ということ,また「障害者」とは「常識的に出会えない」ということは,「私」は,「私」が「出会う」人は「健常者」であると思っている.出会う人が「健常者」であることを期待している.「出会う人」に「『健常者』であること」を求めている.

 期待をすることは,「(その期待に)応えよ」という要求であり,命令でもある.そして,多くの場合,裏切れば(良い意味で「期待を裏切る」ことがあるかもしれないが,ここではその意味でない)それに対する「報い」を受ける.それは「嫌悪」であるかもしれない.一方的に要求を受け,報いを受けるのであるから立場は対等でない.どのようにしてこのような対等でない立場が成立させられているのだろうか.不思議である.

Ⅱ.

「出会う」前からもそのような期待をされている.私たちは常に多くのことをそのように期待されていると考える.それはどのようなことを,どのようにして期待されているのか.そしてそれに苦痛は伴わないだろうか.

「期待」されているのは,恣意的な「適切さ」(の遂行)であるかもしれず,「前提」(の共有)であるかもしれない.「期待」に応えなければそれに対する「報い」がある.私たちは絶えず期待に応えようとしているし,「あたりまえ」となるほど,「期待」に応えている.それによって「常識」なるものが成立しているかもしれない.また,裏切られた「適切さ」や「前提」を修復するための別の意味空間が存在するだろうか.

「報い」は期待を裏切ったときにのみ与えられるわけでなく,応えたときにも与えられる.「報い」は自らへの評価であるかもしれない.それが自らの価値と結び付けられるなら,あるいは「繋がり」を構築する際や維持したりするのにその評価に焦点が当たるなら「人との繋がり」が重視される社会のもとでは,良いものを得るための努力,悪いものが与えられるのを避ける努力に,「期待」を読み取る努力に,それを「能力」とされ(,されながらそれを求められ)ることで余計に,私たちは,ときに疲れきってしまうほど,必死になっているかもしれない.また「言葉」がどのように伝わっているか,どのように受け取るべきかよくわからないことがあるといったこともこのしんどさに関わる.「よく考え(ることができ)てしまう,あるいは考えさせられる人」はより負担を課されるだろうか2).私たちは普段,何かとても大変なことをどうにかやり過ごしているのではないか.

これをうまくやり過ごすことが「できない」ならどうか.(期待)一つ一つに/を―何を人に要求してしまっているのか,ということも含めて―考え(ることができ)てしまうとすればどうなるか.例えば,私がそれを期待することは相手の期待を(悪い意味で)裏切ることであるかもしれない.となると,その「相手の期待」を読み取り,私の期待を修正しなくてはならない.(「介助現場」ではどうか.)

特定の人との関係が継続するなら「私」にかかる負担はより増すだろう.私の匿名性は損なわれ,評価が与えられるのは「(どこかの)誰か」ではなく,(「いつもの」「~(「特徴」?)な」)「あの人」になり,「私」に(近く)なる.「評価」と「私」との結び付きが強くなる.一度与えられた否定的な評価は後にも残るし,伝播することもあるかもしれない.「失敗」は累積するから,「名誉挽回」に駆り立てられるかもしれない.肯定的な評価の維持努力も必要になるだろうか.

相手(の行為)が「期待はずれ」でもときに(それで)よしとするのは,(あるいはよしとしたように振る舞うのは,)一つには,こういったようなしんどさがあることを私自身もよく知っているからではないか.

自らの価値や「繋がり」と結び付けられることを措くとしても,「嫌な顔」をされるのが苦痛であるかもしれず,「嫌な顔」をされたのが「私」であることがより苦痛であるかもしれず,「嫌な顔」をされる(とわかっている)場に行くのは苦痛であるかもしれない.相手が感じたであろう不快の原因を自らに帰属させてしまえば,申し訳なさを感じ,自己否定に陥るかもしれない.それを避けるために,やはり,先に述べたような努力を強いられるだろうか.また,自己を守るために,「無茶な要求(期待)」へのクレームを申し立てたりして,その「要求者」に責任を帰属させるようとすることもあるかもしれない.ここでも別の意味空間がつくられることがあるだろうか.

以上のことについて考えることで,私たちはどのような/どのように権力を行使し,行使され,また維持しているのか,を明らかにできるのではないか.(それが人を抑圧するものであるなら,それを明らかにすることには一定の意義があると考える.また,しんどさと/に付き合うのにも役立つのではないか.)

「『身なり』が『変』であること」への軽蔑は,「私たち」が期待し,それらからの強い要求に応えることでどうにか維持している,達成されるべき(達成されることが期待されている)「望ましさ」への裏切り,「適切さ」への裏切りに対する軽蔑ではないか.それは「私たち」(成員)から外したくなるほどであるかもしれない.

「(あなたが『変』だと)私まで…(『変』だと思われる)」といったりもする.「『変』である人」が脅かした(と考えられている)のは何であり,どういった範囲に及んでいるのであり,それはどのようにしてか.

「同化(「越境(Passing)」的な意味を含めて)」をするにしても,「異化(「逸脱」的な意味を含めて)」をするにしても,私の場合は,「あえて(それをする)」なのである.つまりは,「ただそこにいる」ということが不可能なのである.それはどちらも(私がどうしたいと思っているかとは別に)できてしまうことによるだろうか.喜ばれる(期待(要求)に応える)のは前者であろう.しかし,「それで『報い』を免れるから私は楽である」などということはなく,かといって,「私は『報い』によって危害を受けない(これは無いか),あるいは気にしないから後者のほうが楽である」などということもない.断定可能な何者かであることを求められても困る.私でない人もまた,自らの理解の及ぶ範囲に無理やり収めようとするから困ってしまうのかもしれない.まして私や「その筋の人」ですらもわからない(ことがある)ようなものを「わか(ってい)る」ことを求められている(と思ってしまっている)とすれば,無理もない.

(注)

1) 好井が「障害者」というカテゴリーの対称として「健常者」は適切でないと述べるように(好井2007),どちらでもない可能性があるとして,「障害者」の対称として「健常者」ではなく「非―障害者」の方が適切であり,「健常者」の対称は「非―健常者」ということになると考えるが,以下,二分法が行使されていることを前提として,「障害者」の対称として「健常者」を用いた.

2)  考え(続け)なくてはならない(立場に置かれる)ことがあると考え,「できてしまう」が故の苦痛があると考える.

  

(文献)

好井裕明,2002,「障害者を嫌がり,嫌い,恐れるということ」石川准・倉本智明編『障害学の主張』明石書店,89-117

――――2007,『差別原論――<わたし>のなかの権力とつきあう』平凡社.