さて、何を書こう。
 

 かれこれ小一時間、PC画面を睨み付けているけれど、悲しいかな言葉が一向に出てこない。

 

 スランプとかそんな、陳腐なようでいて、その実とても高尚な言葉を自分に当てはめるのは大変失礼な気がするので、何度も頭に浮かぶその文字を打ち消しては唸っている。
 

 子どもの頃から、まあまあ理屈っぽい人間だったので、それなりに本も読んだしいろいろ考察したり分析するのも好きだった。

 

 国語の成績はよかったし、何かしら文章を書いていけたらいいなと漠然と思っていたけれど、具体的に行動を起こすこともなく大人になってしまった。

 

 子育ても一段落して、何か趣味でも始めたいと思った時に、思いついてブログを始めてみた。

 

 特に内容は深くはない。日々のあれこれを少々盛って文章を練れば、それなりに文学的なエッセイに見えなくもない。
 

 ブログは爆発的な人気にもならないけれど、いくらか固定の読者がついて、楽しくなって毎日のように更新していたのだけれど。

 

 突然、書けなくなった。

 

 何のためにやっているのだろう、という気持ちが涌いてしまったからだ。

 

 誰かに認めてほしいとか、褒められたいとか、そんな気持ちがないと言えば嘘になるけど、ただ楽しかっただけなのに。

 

 自分の中の漠然とした感情を考察して言語化したり、出来事に自分なりに意味を見出だすのは、決してそれが正解ではなくても構わないのだ。自分が満足するならば。

 

 そうか、と何かが囁いた。

 

 意味を見出だすことが目的になってしまっていたのかもしれない。

 

 どこか着地点を見つけなければと躍起になっていたのかも。

 

 ただ風の音を聴く。

 

 鳥の声に耳を傾ける。

 

 街のざわめきや人々の暮らしの息吹を感じる。

 

 そういった、五感を研ぎ澄ませて全身が悦びに包まれるような、そんな感覚そのものが好きだっただけなのだ、私は。
   

 そう思ったら、急に外に出たくなった。

 

 街に出よう、そうだ、どこかへ行こう、なんて、いつかどこかで聞いたようなフレーズに唆されて立ち上がる。

 

 生きていることを、全身で感じられることは幸せなことだ。私はその幸せを実感したいのだ。

 

 その、小さなサインを見逃したくないのだ。
 

 出掛けること、誰かに逢うこと、物作りをすること、本を読むこと、映画を観ること、自然に包まれること、何でもいい。
 

 生きていることを、存分に味わおう。

 

 そう思って、PCを閉じると外出の支度をする。

 

 今日はそんな日。

 

 それでいい。

  





      fin