海が見たい。
突然思い立ってドライブに出かけた。
山に囲まれた場所に住んでいるからか、時折無性に海が見たくなる。
泳ぐのも大好きで趣味はスキューバダイビング。魚だったんじゃないの、と揶揄されることもしばしば。
自分でもそうなんじゃないかと思うわ。深い海の青、水中から見上げる水面の光。美しい泡沫のプリズムが、心の底から私を満たしていく。人間だから当然呼吸は出来ない筈だけれど、気分的には海の中にいるほうが、ずっと楽に息が出来るような気がする。
早く暖かい季節になって、海に潜りたい。寒い季節はもうこりごり。
海岸沿いの道の駅の駐車場に車を停めて、砂浜を歩く。春の気配があちこちに散らばっているけれど、まだ少し肌寒い。
曇天の重く暗いイメージが気分を沈めてしまうのは、ただの勝手な妄想に過ぎない。爽やかな青空に気分が良くなるのは、人間の本能なのかもしれないけれど。
ああ、なんて息苦しい。
飛散する花粉や飛来する黄砂のせいではない。この世で人として生きるのがとても、とても息苦しく感じる私がおかしいのだろうか。
平日の午前は、人もまばらだけど、初老の夫婦や、小さい子どもを連れた若い母親がのんびり散歩している。それは何気ないけれど、とても幸せそうに見えて。
あんなふうに、当たり前の人生を歩めない私がおかしいのだろうか。と、更に思う。
いつも何かを探しているようで、それが何かもわからない。欠乏感と焦燥感に苛まれて自分を責める繰り返し。
眼前に広がる暗い海が、まだ私を拒絶する。
若い母親に連れられた小さい子どもが、砂浜で転んだ。柔らかい砂だから痛くはないだろうが歩きづらいのも確かだ。よちよちと覚束ない足取りにハラハラしていたら案の定だった。
子どもは、泣かなかった。痛くなかったからかもしれないが、毅然と幼い面を上げ、また歩き出した。母親がやさしく見守っている。
そうか、私もそうだったのだ。
きっと、私は人魚だったのだ。
人間の脚をもらったのだから、初めは歩きづらくて当然なのだ。
でも、脚をもらったのだ。
この大地を悠々と歩くために。
きっと海は、私の故郷なんだろう。だから懐かしく愛おしく、時々帰りたくなるのだろう。
でも、私は歩いて生きていくのだ。
どんなに足取りが頼りなくても。
人間として、生きるために。
fin