「だって、その人たち、行き先を見失って迷っているんです。」美空はそう言い切ります。この言葉は死んだ人に向けて発した言葉のはずなのですが、自分自身にも言い聞かせるように発していたのかもしれません。もしかすると、発した後、自分自身の心の中に刺さるものを感じたのではないでしょうか。就職先が見つからずに迷っている彼女がこんな言葉を発することに少し驚いたのです。しかし、出来事を通して彼女は確実に強くなっています。
死んだ人たちは突然違う状況におかれてしまったのですから、行き先がわからず立ち往生していたとしても不思議ではありません。死んだ人に近い人もそうでしょう。生きているはずの彼女も行き先を見失って迷っていたのではないでしょうか。彼女だけではありません。その言葉を聞いてドキッとしたわたし自身も、行き先を見失って迷っているのです。「行き先を見失う」という言葉はあまりにも強い言葉なので、問われても認めたくないのですが、これを言い換えて、「あなたはどこに向かっているのですか」という問いかけに対しても明確に答えを出すことができません。日々眼の前に降ってくる出来事を捌くことに四苦八苦して一日が終わっているのです。
行き場を見失っているのは、「それを認めなくないだけ」だと彼女は指摘します。そうです。誰しも認めたくない現実から目を逸らして歩んでいるのでしょう。現実を認めたくないので、行き先を見失って迷っているのです。生の余韻を引き摺っているうちは死者も認めたくないと考えて生に執着しているのかもしれません。
どれだけ齢をを重ねても、自分の考える理想を実現できない現実を認められません。実現できない自分を認めることは難しいことです。歳をとってできなくなることが増えていく現実も認めることが難しいようです。環境が変わって順応できなくなっている自分自身を認めることができず、すべてを自分以外のせいにして、正当化し、認めずにその場をしのいで時間切れを待っているのかもしれません。
当初、おどおどしていたはずの彼女の姿はそこにはありませんでした。「姉のせいで見たくもないものが見えると思って煩わしかった」と考えていた彼女は、この力のおかげで「亡くなった人たちに寄り添うことができるんだとわかった」と言うようになったのです。「会いたかったな、お姉ちゃんに」と呟く彼女は迷いから脱したようです。
里見が呟きます。「家族を持つと、きっと、みんな強くなれるんですよ」。家族だと認識する人ができると、その人は守ることを覚え、人は強くなります。美空が強くなったのはなぜだろうと考えていたのですが、そばに寄り添う姉の存在もまた現在の家族の一員だと認めたことによって、強くなったのでしょう。姉はもはや生の世界には存在しないとはいうものの、大切な存在であるということを認識したのです。その存在もまた大切な存在だと認めることができたので、彼女の世界が広がり、彼女自身が広い世界で活動できるほどの強さを身に着けたのです。
優しさと強さは相対した概念ではなく、等価なものなのではないでしょうか。美空は葬儀という特別な儀式にかかわっているから強くなったわけではありません。死者を感じる能力を持っているから強くなったわけでもありません。優しさを理解して優しさをもって、人と接することができるようになったから、強くなったのではないかと思うのです。優しさとは人を受け入れる強さなのでしょう。
私たちにとって、死は特別なことではありません。必ず訪れるものであり、日常の延長線上にある、一つの通過点に過ぎないのです。私たちはその境界線に眼を背け、できるだけ見ないようにし続けています。境界線の向こう側があまりにも不透明なので、その向こうについて考えないようにする方が自然だとうことなのでしょう。しかしそうして過ごした結果、突然訪れる死によって大きな混乱がもたらされることになります。それは自分自身だけではなく、周囲にいる人たちも含めて混乱に陥るのです。あらかじめ告知されていようが、その告知を受け入れて何が起こるのか正しく認識しない限り、必ず混乱は起こるようです。人の死を目の当たりにして、平然と物事を処理をできる人の方が変だと思われるくらいです。それでも死は必ずやってきます。予告がないことも承知しています。そして、わたしたちは、見ないようにしてきた死の訪れに戸惑う態度こそが正しい振る舞いだと思っているようです。
美空の死に対する接し方は、生きている人に対するものと変わりません。この先も存在は続くのだ。死とは暗い闇の中に落ちていくことではなく、青く澄んだ広い空へ昇華していくことなのだと言っているようにも思えます。死んでも行く場所があり、明るい未来があると理解しているようです。幼いころから姉と向き合ってきた美空にはそういう概念ができていたのかもしれません。
普段、死について考えることはほぼないでしょう。死とはいったいどういう状態のことなのでしょう。わかっているようでわかっていない状態かもしれません。私たちは機能を停止した肉体を目撃した時、声や体でコミュニケーションをとることができなくなった時、死という言葉を意識し、その存在が自分から遠く離れたところに行ってしまうような感覚を持っています。しかし、それは正しい概念なのでしょうか。登場する存在は、肉体を離れてもなお存在を主張します。そして、肉体を携えている私たちよりも明確な目的を持って自分の意思で行動します。彼らの存在は永遠だと言わんばかりです。
生きていても行き先を見出せない人がたくさんいることを考えると、死を迎えた存在とは死に拘束されたわけではなく、不自由な肉体の制約から解放された自由な存在なのかもしれません。肉体がなくても存在するのなら、生きている人間よりも永い未来が待ち受けているのかもしれません。私たちは死についてほとんど理解していないような気さえします。
死が目の前に突き付けられるまで、私たちは死について語ろうとはしません。いや、突き付けられても認知しようとしないのです。死はどこまでも遠い世界にあり、生きている私たちとは無縁の存在だと思い込もうとしているようです。死を迎えた存在は、おどろおどろしい存在で、決して関わってはいけない存在だと思っている節があります。死を迎えた存在を遠く離れた場所に押し込めてしまおうとさえ考えているようです。
私たちは、いつか死ぬということを知っているはずなのですが、それを認めようとはしません。身近な人の死も簡単に受け入れることはできません。死によって得られるものは何もなく、すべてを失う状態だと考えているのです。
しかし、多くの死に対し、真摯に向き合ってきた人々はどこか違います。人とは違う価値観、人とは違う感性、最も重要な重みのある概念を手に入れているのではないだしょうか。死と向き合ってきた彼らから滲み出す正しさはそういうことなのかもしれない。里見から感じる正しさとはそういう者なのでしょう。そして美空の変化は死に対する概念を受け入れたことを意味しているのではないでしょうか。
死んですべてが終わると考えるのは生きている人間だけかもしれません。死んだとき、自己の存在が隣接する世界に移動するだけで、遠いところではないようにも思えます。私たちはその世界に関わらないように、見ないように、考えないように、意識しないようにとしてきた結果、死が遠い世界のものだと思うようになっただけのことなのです。
死に遭遇すると、生きている人たちは別れのための儀式を行います。それは単なる儀式ではないようです。儀式は形式だけの問題ではなく、残された人が心を整理する時間なのです。陽子さんは「残された人の気持ちの問題だからね」と言い、里見は、「こうやって後悔の念を少しでも昇華させるしかない」と言う。漆原もまた、「彼には時間が必要なのだ…ゆっくりと…もういないのだと理解するための時間が…」と考える。葬式とは死と向き合い、ゆっくり考えることのできる数少ない機会だということなのだろう。
死に直面して、わたしたちは失うことも多いが、正しく向き合えばそれ以上に得られるものも多いのです。死に直面して、それを確実に認知することによって、その人との間にある絆を再認識することができます。強い絆によって結ばれていたのなら、こういう機会を通して、再認識できれば、その後もその人を意識しながら生きることができるようになるのでしょう。死を理解することにより、人との関わりを大切にできるようになるはずですし、死を通して、多くのことを得ているはずだと思います。
現代社会では人との関わりが希薄になり、人の葬式に出席すること自体が少なくなりました。身近な人の死も減少しました。それは、本当によい事なのだでしょうか。死について考えることによって、接する人の大切さを認識することができそうです。人と関わりの大切さをもう一度考え直してみようという機会になったかもしれません。