お釈迦様は犍陀多を地獄から救おうと考え、一筋の蜘蛛の糸を垂らします。しかし、お釈迦様が考える蜘蛛の糸の使い方は犍陀多やわたしたちが考える使い方ではなかったのかもしれません。
地獄には一刻も早くここから逃れたいと考えている人が犇めいているのです。ですからこの結末は誰にでも容易に予想できたはずです。お釈迦様も予想しておられた事でしょう。もしかしたらお釈迦様が蜘蛛の糸を垂らしたのは初めてのことではないかもしれません。地獄の上に、短く切れた蜘蛛の糸が何本も垂れさがっていたとしてもなんの不思議もはありません。お釈迦さまは今度こそは大丈夫かもしれないと考えながら蜘蛛の糸を垂らしたのではないでしょうか。
本当に犍陀多だけを救わないといけないのなら、御手を差し伸べて犍陀多だけを掬い出せばよいはずです。しかし、お釈迦さまは糸を垂らします。すくなくとも犍陀多のために垂らした蜘蛛の糸ですから、この出来事で救われる方法があったはずです。彼はどうしたらよかったのでしょう。
犍陀多が少し糸を上ったところで、自分の足元の糸を切ってしまったらどうなっていたのでしょう。そうすれば犍陀多は無事、天上界にたどり着いたかもしれません。しかし、極楽で暮らせたかどうかは分からないのです。
極楽に住んでいる人々を想像してみました。多分そこにはわたしのことを思いやってくれる人ばかりが住まわれていて、わたしはその人たちと日々安穏と過ごすことができると思っていたのですが、はっと気が付くと、その考えはわたし自身にも跳ね返ってきていました。わたしもまた相手のことを思いやりながら過ごさねばならない場所なのです。
地獄の中では、目の前のことだけで精一杯になっています。相手のことを思う余裕などかけらもありません。しかし地獄の中では懸命にもがくことができても、極楽に行った時、できることが見つからず屍のように暮らさねばならないかもしれません。相手のことを思いやる気持ちにあふれる人でなければ、極楽にいる資格はないということではないのでしょうか。
お釈迦様は、犍陀多が蜘蛛を助けたことを思い出されて彼を地獄から救い出そうと決められました。彼が自分以外の命を大切にできる人物だから、極楽に住むこともできると考えたのです。それはたった一度きりのやさしさだったかもしれませんが、お釈迦様にとってはそれで十分です。たった一度でもそれを実現できるのであれば、その思いやりを思い出しているかもしれません。それなら、極楽に引き上げてあげようと考えてくださるのです。
蜘蛛の糸ですべての罪人を一度に救うことは出来ないかもしれませんが、責め苦に苦しんでいるほかの人々を助けようと、一人ずつ送り出すことは出来たかもしれません。
天に向かって送り出された人たちが、どんな結末を迎えるかはわかりませんが、犍陀多にその行為ができれば、彼は極楽に迎え入れられたような気がします。
蜘蛛の糸によって犍陀多を試したという表現は不適切です。彼が極楽に来て不幸になってはいけないので、極楽で暮らすことができる存在かどうか、彼自身が極楽で暮らしたいかどうかを確認したと言う方がよさそうです。極楽にいたくない人がいるのかと思うかもしれませんが、わたしたちの生き方は必ずしもそうではないかもしれません。いつも新しい刺激を求め、我先にと手を伸ばして、集団の中では優越感を持とうとし、コミュニティの中で少しでも優位に立とうとしているのです。自分だけが特別であることに大きな価値を見出しているのだとしたら、蜘蛛の糸に上っている犍陀多となんら変わりがなさそうです。
居場所のないところにい続けることは苦痛です。そこがたとえ極楽と呼ばれる場所であっても、安心して存在することは出来ません。状況に耐えかねて、結局誰もいないところへと逃げ出すしかないと思うのです。何も目的が見出せない場所で静かに存在していることも難しいかもしれません。人と関わりながら平穏に過ごすことに価値を見出すことができなければ、無限に繰り返される仕事に身を委ねるしかないかもしれません。自分の力にしか価値を見出すことができなければ、自分一人が存在している暗闇で苦しむしかないのです。
蜘蛛の糸によじ登る犍陀多はもしかしたら、今生きている私自身の姿そのものかもしれないのです。そして、周りの人々のことを忘れた結果、ある日突然糸が切れ、地獄で存在しなければならないということを示しているように思えてきました。
罪人は裁きによって地獄に落とされ報いを受けるのだと思っていたのですが、違うのかもしれません。地獄は彼らが自分の居場所を求めて選択した結果なのではないでしょうか。誰が好き好んで地獄を選ぶのかと言うかもしれませんが、自分が進みたい方向を選んだ結果、見つかった居場所が地獄かもしれないのです。蜘蛛の糸は上るために垂らされたのではなく、行動の選択肢だったとしたらどうでしょう。自分の苦しみをさておいて周りの人々を優先させることができるでしょうか。