当時のユダヤ人が考えていた常識は間違っていたようです。『神さまを愛すること』と『隣人を愛すること』(マタイ22章)この2つだけが大切なのであって、民族の血統やプライド、戒律などはなんの意味もありません。ましてや自分自身の地位や名誉、財産などは、神さまの前では何の役にも立ちません。過去の人が優れていたからといって自分自身が優れているという証明にはならないのです。それを教えるためにイエスさまが話をされていたように思えます。
そして、このマタイの1章はユダヤの血統、選民思想について深く考えるためのものなのではないでしょうか。アブラハムやダビデというような尊敬すべき人物が祖先にいたからと言って、自分自身が優れている証明にはなりません。努力していることを表すものでもありません。
客観的になればこんな思想が間違っていることは分かっても、いざ自分自身のことになると、うまく実践できないようです。選民思想ではなくても、私は特別でありたいという思いが常にありそうです。そんな考えに対し、「わかるけど…、現実は…、」と言い訳しながら、財産や名誉にしがみついて、そこから離れることができていないような気がします。