新約聖書の第1ページを開くと、「アブラハムの子ダビデの子、イエスキリストの系図」という言葉で始まります。アブラハム、そしてダビデという人がいて、この人たちとイエス・キリストとの関係が詳しく説明されていくのだろうと予想するのですが、そのあともカタカナの名前だけが延々と続き、「なにこれ?」という感じで、そのまま1ページが終わってしまいます。何度読んでみても名前以外の情報は手に入りません。これらの人の意味を探ろうと思っても、手がかりもなく、この系図にどんな意味があるのかもわからず、聖書を読み始めた人の多くが、ここで挫折してしまいそうになります。
聖書を読もうと思った人は、聖書にはきっといいことがたくさん書いてあるだろう、その中から教訓を学び取ろう、教えの中から生きる糧を得ようと思って読み始めたはずなのに、その1ページ目で出鼻を挫かれて挫折に追い込まれます。わからなかったら、思い切って読み飛ばしてしまってもいいんじゃないという人もいます。おそらくその通りでしょう。聖書を知っている人は、この部分については最初から理解しなくていいという意見の人が多いかもしれません。とはいえ、わざわざ第1ページにこんな箇所を持ってこなくてもよいのにとさえ思います。
マタイは聖書を読もうと思った人に対して、挫折に追い込もうと思ったわけではないはずです。それなら、なぜ最初の1ページにこんなわけのわからない単語が並んでいるのかとは思うのですが、名前が出てくる登場人物のことや、当時の背景、風習、この福音書を書いたマタイという人物のことがわかって、すこしずつわかってくることがありそうです。聖書を読み続けてみると、この書物を書いたマタイの強い思いがこの中に表れていることがわかってくるような気がします。