イエスさまは単なるたとえ話をしているのでしょうか、それとも実際にあった話をしているのでしょうか。それはわかりませんが、一連の話の流れを考えると、だれが天の国にふさわしく、だれがふさわしくないかを考えるために、金持ちと貧しい男が出てくる話を選ばれたようです。

 

金持ちの名前はわかりません。金持ちの名前は重要ではなかったようです。一方貧しい男はラザロという名前で呼んでいます。このラザロという名前には意味があるのかもしれません。ラザロはギリシア語での読み方で、ヘブライ語ではエルアザルのようです。そしてこのエルアザルという名前は「主は助ける」という意味でした。でも、地上で生きている間に、主が助けるという状況はとうとう起こることはありませんでした。とうとう彼は天に召されることになります。地上で神さまが助けるような出来事が起こらないとしても、最終的にはそのあと天の国で助けられることになるということを暗示した名前なのかもしれません。

 

金持ちは日々の生活に困っていない人々を指しているのかもしれません。ラザロを助けようと思えばいつでも助けられたのですが、最後まで手を出すことがなく、誰かが助けるだろうと思って傍観しているわたしたちのことなのかもしれません。そう考えると、このたとえ話は差し伸べるべき手を差し伸べていないわたしたちに向けられていることになります。単に貧しい人に手を差し伸べないというだけでなく、目の前にいる困っている人に対し、見て見ぬふりをしてしまう私たちに問いかけていいるのかもしれません。わたしたちはこのたとえ話を自分に向けられたものとして真剣に考えてみる必要がありそうです。