私たちは「今日も」お与えくださいと神さまに祈ります。それはわたしたちが今日一日を健やかに生きることができるようにと祈っていることと同じことかもしれません。肉を養うための糧だけではなく、霊を養い、霊が健やかに生きるために祈っています。「今日は」ではなく、「今日こそ」でもなく「今日も」なのです。今まで与えられてくださらなかったものを与えてくださいと願っているのではなく、これまで、肉と霊を養っていただいたことに感謝し、今日もまた養っていただけることを祈っています。

 

ところが私たちは与えられているという実感をあまり持っていません。与えられることが当たり前のことになってしまっているので、与えられているような気がしないのでしょう。神さまに今日の糧はどうしていただけなかったのでしょうと愚痴を言うことさえも出てきそうなくらいです。

イスラエルの民がエジプトを出て荒れ野を進んだ時、神さまは彼らに「マナ」を与えて養いました。彼らもまた糧を与えられることが当然だと思っていたので、不平を言い続けていました。わたしたちの状態もまた、彼らの考え方に近いようです。

 

マナは必要以上には与えられず、蓄えることも許されていませんでした。それは養うという行為において、休むことができず蓄えることができないことを示しています。肉体を養うのであれば、摂取し、消化し、栄養を循環して、再生するというプロセスを行う必要があり、一定期間のプロセスを一時期にまとめて行うことができないようになっています。荒れ野で蓄えたものは無駄になってしまったように、自分の体に合わせて必要なものを理解して、必要な時に必要なだけを取り込むということが必要になるのです。

 

それはマナ以外のものでも同じことのようです。例えば、考えるというプロセスにおいても同じようなことが言えるかもしれません。学びの中で、消化不良になってしまい、摂取したはずの知識を吐き出して忘れてしまうということがよくあります。一度に取り込める量も決まっており、ためておくことができないのも自明です。文字などの形で、蔵に積んでおくことはできるかもしれませんが、自分の糧にするためには必要なものをそこから取り出して、摂取し消化するというプロセスが欠かせません。

 

イエスさまは「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。」(ヨハネ6:63)と言われるのですから、この祈りもまた、霊の糧について祈っていることは間違いないでしょう。そして、霊においても同じことが言えるように思えます。霊を養うために、みことばを得て、みこころを理解し、成長のための核心を取り出して、実践する、そして霊の成長を確認するというプロセスが必要です。霊においては、与えられたものすべてを取り入れて栄養と出来るわけではないので、自分の霊に見合ったものを取捨選択し、理解を深めていくことが必要になりそうです。自分の持っている霊の状態を知らなければ、どんな糧がどれだけ必要なのかわからないということです。

 

命の本質である霊を養うためには、善い人との交わりが必要です。私たちは人との交わりが生きる力となっているのですが、善い交わりが天から勝手に到来するわけではありません。よい交わりを構築するためには、私たちの行動が大切です。そして、その行動を実践するための勇気が霊を養うための糧といえるかもしれません。その糧は当たり前のように与えられているはずなのですが、自分勝手な都合で立ちすくんでいるので、糧を与えてもらっていないような気がしているのかもしれません。

 

私たちは隣人に対して「やった方がいい」と思うことがたくさんあります。そう思っていることを「やればよいことが起こるであろう」ことはわかっているはずです。しかし、いろんなしがらみや人の視線、自分の権利などを考えるあまり、つい足がすくんでしまうのです。それが霊を養うために必要なことであると理解して、実行するための力を願うと、神さまは交わりの中で実行するための勇気を与えてくださるのだと思います。

私たちは一歩ずつしか進めないことを理解して、少しずつ身になるものを蓄えていくしかありません。その身になるものが神さまから与えられるものしかないということがわかってくると、今日いただくものを願うしかありません。明日頂くものは、明日消化しなければなりませんので、今日いただいたものをその日に栄養として取り込む努力が欠かせません。

 

「お与えください」と神さまに与えられることを待ち望んでいるかのような、受動的に思える祈りですが、実は祈っている本人の能動性が重要視される祈りかもしれないとさえ思えます。

 

今日、わたしが必要としている糧はこのようなものです。わたしはこの糧を得ることによって、こういう行動ができるようになると考えています。みこころならその糧を実行する勇気と共にお与えください。というような祈りなのかもしれません。