天の国で働くという話をしてみたのですが、わたしたちは天の国で何をしたらいいのかよくわかっていません。
天の国にいて、ただ漫然と時間を過ごすということは考えておらず、何かしたいと考えています。
しかし、まったく価値観の違う世界で何をして過ごしたらよいのかわからないのです。
生きることと働くことが等価だと思っているのかもしれません。
何もせずに生きることができないと感じているのかもしれません。
存在と言ってもいいかもしれません。生きることと存在することは等価です。
そのための活動が働くという行為なのです。
今、この世界で日々働いているのですが、そもそも働く目的をちゃんと理解して働いているのでしょうか。
働くことに対して誤解しているというようなことはないのでしょうか。
そんな疑問さえ湧き起こってきます。
わたしたちが今この世界でなぜ働いているのか問われたとき、まずは、生きるためという理由を挙げるかもしれません。ただ、この生きるという意味は、自分自身の肉体を維持するということです。もし、肉体を維持することに努力を払わなくてよいのなら、働くことをやめてしまう人も多いかもしれません。
この世界で肉体を存続し続けるためにわたしたちは働き続けています。将来の不安に備えるため、家族を養うため、よい生活をするため、などいろんな理由はあるかもしれませんが、ほとんどが自分の肉体もしくは家族の肉体を存続させるためなのです。
しかし、わたしたちもこの世を去る時が来ます。
その時、肉体を維持することに専念する必要がないとしたら、わたしたちはその世界で一体何をしたらよいのでしょう。食べ物に拘る必要もなければ、富に執着する必要もありません。わたしたちが、望んでいるはずの天の国で、わたしたちは何をすればよいのかわからないでいます。ただ意識が存在している状態で、ただただ時間が過ぎていくという状態は耐えられそうもありません。この大きな価値観の違いに戸惑いを感じます。
今、働いている理由が自分の肉体を維持するためだけだと考えるから、それを理由が取り除かれた天の国で何をしてよいかわからなってしまうのです。わたしたちはなにか大切なことを忘れてしまっているのではないでしょうか。働く目的は、本来自分のためではないのです。働く喜びを得られる瞬間があるとしたら、それは自分が肉体を維持できるということではなく、働くことを通して誰かに喜びを与えることができた時、誰かに感動を与えた時、誰かと共感できた時、つまり相手に認められた時なのです。
もう少し働くことについて考えてみることにしましょう。