主の祈りは「天」という言葉で始まります。
クリスチャンでなくても「天」という言葉はよく聞く言葉です。
「天」は誰でも知っている言葉なのですが、具体的に説明してほしいといわれたら、困ってしまう言葉でもあるのです。
「天」という言葉はわかっていても、そこがどんな場所なのか、誰も知りませんし、そこに何があるのかも知りません。
天について、わたしたちは何もわかっていないのです。
そもそも、ここで言っている天とはどこにあるのでしょう。
天はどんな世界なのでしょう。
そこにはどんな人が住んでいるのでしょう。みんな何年ぐらいそこに住んでいるのでしょう。
そこにいる人はどんなことをして暮らしているのでしょう。
わからないとはいえ、少しだけわかっていることがあります。
わたしたちが今住んでいるこの世界とは違っているということです。
時間は無限にあります。
でもテレビはありません。スマホもありません。
勉強もしなくていいかもしれません。
勉強しないといけなくなっても勉強にどれだけ時間がかかっても大丈夫です。
天にいるので、ご飯を食べなくても大丈夫です。
仕事もしなくていいかもしれません。
死ぬ心配もありません。
そんな世界で、わたしたちは天の国でいったい何をして過ごすのでしょう。
ただ、そこにいるだけなのでしょうか。
わたしたちはどんな姿であっても、どこにいたとしても、存在を示す必要があります。
それが、存在している証となるからです。
地上にいるときは地上の価値で存在を量ってしまっているのですが、
天の国にいるのなら、天の国の価値で存在を量ることになるのでしょう。
天の国の価値を決めているのが神さまであるなら、
わたしたちは天では、神さまの価値基準でわたしたちは働くことになります。
それがどんな仕事になるのかはだれも知りません。
しかし、そんな価値基準で働くことになるのだろうと、おぼろげながらに考えています。
ともかく、天の国でわたしたちは、他の人々とともに、力を合わせて神さまの目的のために働くことになるのでしょう。
わたしたちは働くことによって、存在を示しているのです。
そして一緒に働く人々は生きているときに知り合った人たちだけではないでしょう。
神さまと一緒にいろんな人と話をすることができるかもしれません。
話す相手もまた、いろんな人がいます。もしかしたら嫌いだった人もいるかもしれません。
怖いと思っていた人もいるかもしれません。
でも、みんな神さまの周りに集まって来ています。そんな人たちとともに働いています。
天は神さまと共に暮らす世界なのです。
いろんな人とお話ができます。
有名な人、優秀な人、思慮深い人、優しい人、厳しい人、いろんな人がいて、無限の時間の中でゆっくり話ができます。
今日は大好きな人が前にやってきました。さあ、何を話しましょう。
今日は大嫌いだった人が前にやってきました。さあ、何を話しましょう。
嫌いな人にイヤなことを言ってはいけません。だって、ここは平和な天の国なんですから。
なんだか難しいことなってきました。嫌なことを実践することは難しいことです。

 

長くなってきたので、今回はこの辺で。

次回もう少し天について考えてみることにしましょう。