ぼくは結婚に対して偏見をもっている。
ぼくが思う結婚とは、精神の自由を拘束するものである。
仏教には「人生とは苦である」(苦諦)、「人生が苦なのは愛が原因である」(集諦)という教えがある。
つまり、結婚とは愛の形であり、それは執着の具現化であり、苦の原因なのではないかと思ってしまうのだ。
しかし、これを書きながら思ったのだが、仏教では「人生を苦にしている愛をなくすには中道を歩むことである」(滅諦)とも教えている。
それを踏まえて結婚について考えてみると、結婚とはたしかに愛(執着)の形かもしれないが、必ずしも愛の形を維持しなくてもいいのではないかと思った。
なぜなら結婚とは、法的な関係性を結ぶ契約をすることであり、そこに愛があるか否かということは絶対的な必要条件ではないからである。
しかし、愛がないのだったら結婚する必要もないように思える。(結婚詐欺は例外として)
そう考えると、結婚というものは結局、法的な関係性を結び、相手を自分だけのものにしようという執着心があることによって成り立つものだということが分かる。
ぼくがいま感じている不安は、老後ひとりで孤独になってしまうのではないかというものだ。
結婚はその不安を解消することができる。それは老後まで自分と一緒にいるということを法的に約束し合うことによって解消することができるものだ。
このような、ただ孤独の不安を解消するための結婚には「愛」がない。自分の不安を解消するためのツールとして結婚を望んでいるということになる。
もしぼくが自分勝手な人間なら、そのような理由から結婚を望むだろうが、今のぼくはそのようなことを望まない。今のぼくは孤独を受け入れる気でいる。
ぼくはここで、自分の子孫を残したいという本能的な衝動を抑える必要がある。なぜなら、子孫を残すためには結婚を前提としていなくてはならないからだ。
そこでぼくは、この本能的衝動をおさえるアイデアを思いついた。
それは「自分の子孫はDNAという形ではなく、文書として残す」というものだ。ぼくは今後、我が子を愛するように文書を愛するだろう。ただし、この愛も執着ということには変わりない。ぼくは文書を残せなくなったら悲しむことになるだろう。それは文書に執着しているからである。
何にも執着せずに生きれるようになんてなるのだろうか…?