勘について考える。
勘を辞書で引くと、
①直感で物事を判断すること。また、その能力。第六感。「勘がいい(悪い)」「勘を働かせる」
②よく調べること。罪あるいは事の内容などをただすこと。
③古文書で、書いてある文章を了承した意を表わす、文句の肩に加える点や線状の符号。
とあり、ここでは①の勘について扱う。
なるほど、勘とは直感を用いることを指し、直感をひくと、さらに哲学的に用いられる「直観」と同義語だとある。
ことばの定義を辿るのはこの辺りにしておいて、ともかく、「勘=感=観」ということらしい。
改めてみると、よく言ったものだと思う。
勘が鈍ったものは、感じることが鈍ったことであり、観ることが鈍ったということだ。
これは僕達が物事を判断するプロセスを逆に辿って説明しているともいえる。
僕達は 観て、 感じて、 勘を養うのだから。
つまり、閃きや新しいアイディアの創出は、結局のところ、どれだけそれに関連する知識に触れているかによるということだ。
僕はこの、「勘」を取り戻したいと最近もがいている。触れなくなった知識にもう一度触れて、生きていくための「勘」をもう一度養いたい。生きていくためというと大げさに聞こえるかもしれないが、日常の僕達の行動の大半は、論理的でないものだし、瞬間的な勘の連続で、安全と危険、快と不快、聖と俗、善と悪などの対立項のどちらかを選んでいるに過ぎないのだから。
物事に価値を与えて他人を動かそうとするものは、きっと勘が優れているのだと思う。
そして勿論、それに関連する知識を十分に習得しているからその勘が研ぎ澄まされているに違いない。