パレード (幻冬舎文庫)
¥560
Amazon.co.jp

パレード(幻冬舎)
¥1,680
Amazon.co.jp



著者:吉田修一


第15回山本周五郎賞受賞作品



【ストーリー】
それぞれの事情から都内にある2LDKのマンションでルームシェアをする男女4人の若者たち。
本音を明かさず、“本当の自分”を装おい、上辺だけ合わせながら、それなりに楽しく穏やかに続く日常。
そこに男娼をするサトルが加わったことで、それぞれの内面に潜んでいた闇が徐々に日常を歪めはじめる…。



【登場人物】
杉本良介  
21歳・H大学経済学部3年。
現在、下北沢のメキシコ料理店でバイト中。
梅崎先輩の彼女・貴和子さんに一目惚れ。愛車「桃子」を所有。

「話したいことではなく、話してもいいことだけを話しているから、こうやってうまく暮らせている」



大垣内琴美  
23歳・無職。
現在、若手人気俳優「丸山友彦」と熱愛中。
ひたすら彼からの連絡を待つだけの退屈な毎日を送る。

「善意のみが入場可能な、出入り自由の空間。嫌なら出来ていくしかない。いるなら笑っているしかない。まさにこれを上辺だけの付き合いと呼ぶのかもしれない。でも、私にはこれくらいが丁度いい」





相馬未来 

24歳・イラストレーター兼雑貨屋店長。

現在、人生を見つめて深酒中。

洋画のレイプシーンを集めたビデオテープを隠し持つ。



「ここでうまく暮らしていくには、ここで一番ぴったり適応できそうな自分を自分で演じていくしかない。ここではシリアスな演技は求められない。ここで暮らしている私は、間違いなく私が創り出した「この部屋用の私」である。よって、実際の私は、この部屋には存在しない」


       


小窪サトル 

18歳・自称「夜のお仕事」に勤務。

現在、無駄な若さを切り売り中。

よく他人の部屋に忍び込む。


「お友達ごっこをしている連中は、絶対に口もききたくないタイプのやつらばかりだ。それなのに、どうも不思議なくらい、一緒にいて楽しくて仕方がない」



伊藤直輝 

28歳・インディペンデントの映画配給会社勤務。

現在、第54回カンヌ映画祭パルムドールの行方を予想中。

タバコ・コーヒーは一切やらない健康オタク。夜中にジョギングをしている。

頼られる兄貴的存在。

「ここで暮らしている誰もが、実はそれぞれ別の場所で暮らしているのではないか…。ということは、ちゃんと暮らしているのは、俺だけということになる。その空想は妙に俺を当惑させた」



5人の主要登場人物が、順番に語り手となり展開していく。


―――――――――――――――――――――――――――――


ここからは僕が『パレード』を読み、感じ考えたことが書かれています。

【再読して…】

この小説は2002年に読みました。
それから8年経ち、映画化されたこともあり、再読しました。


はじめて読んだとき、人が見せない顔、自分の知らない顔を誰もが持つことの怖さを感じました。


今回読んでみて、印象に残ったものは、全編に渡り描かれる「退屈な日常」です。

それは言いかえれば、変化のない毎日。だらだらと続く怠惰な時間。似たような日々の繰り返し。


だけど、そんな日常を平和というのかもしれない。

平和は退屈でつまらない。

幸せとは平凡。

そんなことに気付きはじめ、適応できない現代人は、刺激を欲しがる。

変化させてくれるものを求める。そんな気がします。

変化も与えてくれと。


自分ではどうすればいいかわからず及び腰。

変化することに臆病で、傷つくことを恐れ、人とも上辺の付き合いにとどめる。


匿名性を利用し、普段はやれないこと、言えないことを叫び、人を傷つけて満足する。

それは終わりのない自己満足的な行為で永遠にやり続けても決して心は満たされない。

何も変化はない。


社会を生きているのは誰もが他者です。

他者とは、何も共有していない人と言ってもいいかもしれません。

前にも書きましたが、大きな物語が終われば、人はそれぞれの物語を歩きだすのです。(物語も幻想のひとつ)

今はそういう時代だと思います。

自分が歩み寄り、自分が伝える言葉を持たなければ誰も何も言ってはくれない。

孤独な存在。僕はそれが人間だと思っています。

だからといって、他者は関係ないというわけではない。

病気の人なんて関係ない。障がい者なんて関係ない。年寄りなんて関係ない。ホームレスなんて関係ない。犯罪者なんて関係ない。

自分からいろんな関係を切っていく。

その結果自分は自分の根からも切られ、浮遊していく。


明日は我が身ということもあるし、想像の仕方によってはそういう人も本当は他人事ではないと気付くはず。

だけど、いまの自分には関係がないから、見て見ぬふりをする。

ひとりでもそれなりに生きていけるし、関係ない。

そんな空気が蔓延しているように思うのです。


誰もはじめから、僕やあなたのことなど知らないし、興味もありません。

まして、伝えようとする言葉もなく、不平不満を垂れ流し、人をバカにするだけの人の言うことを聞くなんてありえない。

伝える言葉は関係の中で培っていくしかない。

他者への興味や関心は踏み込まなければ湧いこない。

何がしたいかなんてことも、考えててもわかるわけない。。
関係ないと切り離している限り、何も生まれない。


いま興味のあることだけをやっていくことは幸せかもしれないけれど、いろいろなことを無視していること、傍観していることと同じだと思うのです。

自分を認めてほしければ、関係を築くしかない。

人を知ることでしか自分は見えてこないということもわかってくる。

人との関係の中で人は変化していく。

そんなことを今回は感じました。



現代社会の退屈な日常は、僕らの心に何をもたらしているのか…。


『パレード』は、見方によっては退屈な作品です。

ルームシェアをする者たちの穏やかな日常が描かれているだけだから。

しかし、彼らの日常は「パレード」でした。

仲良しごっこでした。共同生活をするための自分を演じていた。

そして誰もが本音を隠し、自分を騙し、平和な日々をつくっていた。

それぞれの内面には、得体のしれない何かがいた。そのことが最後に暴露されるのです。


関係を築くことを恐れ、関係を無意味と思ってしまう現代人にとって、内面に飼っているモンスターはリアリティがあるのではないだろうか。




【パレード化する社会】


パレードとは、祭礼や祝賀の際に行列を組んで市街を練り歩くこと。(大辞泉より)


パレードは、華やかで楽しげ。
その半面、観客の見えない部分では隊列を乱さないために周囲に合わせ、与えられた役割を演じ、お互いが適度な距離を保ち、干渉せず、その場の空気やルールに従っている。
現代社会の上辺はまるでパレードのよう。そんなパレードに参加し、演じ合い、日常を生きている…。
TV番組などのタレントがキャラを演じるように。

社会、職場、学校、家族、友人、知人、恋人、というそれぞれの人間関係というパレードの中で、現代人は役割を演じ分ける。
自分をさらけ出し過ぎず、適度な距離を保ち、求められることをし、バランスを考えながら…。


パレードは見世物。それはそれで楽しく、日常を忘れさせてくれるものです。
だけど、それもすぐに飽き、退屈で虚しく嘘くさくアホらしくなる。
といっても、やめることは出来ず、決して本音は見せずに求められるキャラで振る舞い続ける。
退屈になり、耐えきれなくなれば、別のパレードに参加するだけのこと。
登場人物たちは、一緒に暮らしているもののそれは仮の姿でしかなく、本当の自分は違う場所に住んでいるかのようです。だから嫌になれば出て行くだけのこと。


どこにも属していると思いにくい現代人の多くは、人の視線で自分の輪郭を確認している。

日本人はその傾向が強いと思います。
日本人のそれは過剰で異様です。
過剰で異様ゆえに注目される日本人のファッション。

外見の変化はすぐにできます。
その場その場で自分を着替え、見た目に執着する姿を虚しく感じながら、その虚しきパレードから抜け出せない。
次から次へと場所を移動し続け、疲れ果てる。居たい場所というより、居てもいい場所にいる。
同居する5人はそれぞれの事情を持ち、居てもいい場所にいる、ただそれだけです。
そして楽しいほうがいいから、そのために与えられた役割を演じているのです。


表面のやさしさ・無邪気さ・笑みの裏では何を思っているかなんてわからない。

どこかに本当の自分はいるのか。
自分の仮の姿が笑い、相手の仮の姿が笑う。


役割から仮の姿から脱することは、パレードの列からはみ出ることで、それは車の事故のよう。
現代を生きるひとりひとりが車であり、パレードという車社会の中で生きる。

信号や標識というルールを守り、適度な距離を保ち、事故のないように注意することは、相手に踏み込まず、傷つけあわず、うまく生きるコツ。
5人も当たり前に適度な距離を持ち、相手の中に入り込まない。それが穏やかに過ごすコツと言っているように。


不安を増幅させるわけじゃないが、知人、友人、恋人、家族、仕事先の人、学校の人、、そうした短い長いの差はあれ、同じ場所で同じ時を過ごす人が自分の知らないところで何をしているかなんてわからないし、その人を理解してるなんて言えない。

なんとなく異変に気づいたとしても、確証はない。
聞いたとしても答えてくれるとは限らない。
答えてくれたとしても何も出来ないし、それが本当に心を開いているとも言えない。
本音を共有しづらくなり、本音を語ってくれたところで相手を理解できると思えない。
触れないことで事故を防ぎ、日常の関係を保ち、相手が言わないことは聞かない。

そんな関係だけでは、人は虚しく孤独でしかない。
だからこそ、感情的なつながりを鬱陶しく思いながらも、それを遠くから見つめ、目が離せなくなる。

かといって、一見、幸せそうに見えるものが本当に幸せとは限らない。
そもそも幸せとはなんなのか?自分が満たされていればいいのか?
相手が満たされているとどうやってわかるのか?


退屈なパレードは延々と続く。
パレードは社会で生きること。他者と共に生きるにはパレードに参加するしかない。
仮の姿を演じるしかない。
それは虚しく孤独で不安でも、パレードで行進し続ける。
そして、そのパレードで知り合ったものとの関係を深めて行くしかない。
深めた先に本音の共有や感情的なつながりがあると信じるしかない。
そこにたどり着くまでの道のりは長く険しい。
破綻するのも事故のように一瞬だ。
熟年離婚でいえば、長い時間、同じ場所で過ごした者でもお互いを理解しているわけじゃない。
そもそも自分のことも理解しきれないのに、他人のことを理解することなんてありえないんじゃないか?
他者との関係を築くには時間がかかる、かといって時間だけでもない。
話せばわかる、そうとも言えない。
人間関係をうまくいかせる答えなんてない。
死ぬまで人は孤独だ。
恋人が出来ようが、結婚しようが、子どもが出来ようが変わらない。

わかりあうなんてことはないのだと思うのです。
ただその人を信じられるかどうかに過ぎない。
そしてその人が信じられる人かどうかの根拠などないのです。
信じ大切な存在だった人も、何かのきっかけで一瞬にして信じられなくなり、一度信じられなくなればそれを修復することは難しい。

何も確かなことなんてない。
結局は自分が信じられるかどうかに過ぎない。

人は相手の本当の姿なんて見ていない。
自分が持っているイメージを投影しているにすぎない。
虚像でしかない。互いに相手を勝手に都合のよい人物と考えている。
相手に自分の物語を演じてくれと言っているのと同じことなのかもしれない。
人によっては演じてくれます。
そしてそういう人を、やさしいとか言っているだけなんじゃないか。
自分の思い通りにいかなければ、裏切られたとなる。傷つく。
そして、不信感は強まり、人自体を信じられなくなったりします。

相手を待っている限り永遠に信頼など築けない。
どうせ本音は語らないだろうとか、裏切るだろうとかいって心を閉じる限り、相手が開くこともない。


人は孤独、という意味は、自分の物語は自分のものでしかなく、相手は相手の物語を生きていて、同じ場所にいようが別のものを見ているというような意味です。

つまり、人と人がわかりあうなんて幻想です。恋愛も物語も幻想です。

だからといっても人はそれを求めるのです。

幻想と言ってもそれを信じられれば現実なのです。

演技の上手い人は、相手の物語を察知して、それにあった人物像を演じてくれるでしょう。

だとえば、詐欺師とか。詐欺師に愛を見いだしてしまうのも、わかりあいたいと求める人間だからこそ。



すべては幻想だということに気付いた現代人の多くは日常の中で狂気を抱えている。

僕はそんなものないという人を嘘くさく感じる。



小説では、他人でもなく家族ほど近くもない、あいまいな関係の人間関係が描かれる。
一見、楽しそうなのに、何も本音を共有できない脆弱なコミュニケーションが延々と続く。それゆえに問題なく続く関係。いつ終わっても誰もとくに何も思わない関係。
そして、退屈な日常をそれなりに楽しく生きている。
その退屈な日々には闇が潜んでいる。
それぞれの体内で鬱積した本音は、それがはじめは些細なものでも、日を浴びぬまま暗く湿った環境の中で歪みながら変質し成長していく。
その闇を白日のもとにさらさせたのがサトルという存在だろう。


人の物語に入り込む存在のサトル。
サトルはカメレオンのように環境によって、自分の色を変える。
そして、スーッと人の心の中に入り込む。
相手は入りこまれたなんて気付かない。
この物語の中でサトルは、外出して住人がいなくなった隙にピッキングをして他人の部屋にあがりこむ。
金品を盗むのではない、ただその部屋で過ごし、住人の生活を覗き見るだけ。
そして、部屋に入った時と何も変わらない状態にし、出て行く。

サトルはこれと同じように、同居人の4人の心の部屋にそっとあがりこむ。

入りこまれた心の部屋はやはり以前と何かが違っている。何かが変わっている。


サトルは同居人の求めていることに応え、心のドアをあけさせる。
それは同居人それぞれが他人には見せない物語の中の人物像を演じてあげていることを意味している。

サトルは、人のぬくもりを誰よりも求めているのかもしれない。たとえ幻想としてもそれを求めているのかもしれない。

サトルは、人の心の部屋にほんとうは堂々と入りたい、だけど、それが出来ない。そんなことをしてほしくないことを知っている。
だから、こっそりと入り込み、その人の隠している本音を盗み見て、共有しようとする。

そのことがそれぞれの本音を白日にさらすことになり、現実をつきつけることになり、日常に変化を起こさせる。


【かい離】

僕らはパレードをする一員であり、パレードをする人たちを見つめる傍観者でもある。
その間につながりを感じにくく、現実感がない。

かい離していく自分。
かい離していく人間関係。
かい離していく、過去と現在、仮の自分と本当の自分、建前と本音、心と体、自分と他者。
ネットでつながりながら、関係が自分がかい離していく。

同居人たちは 同じ部屋に仮の自分を置きながら、本当の自分は別の世界で暮らしている。
自分の見せない物語、語らない物語を自分の中に隠し持ち、現実を生きているということ。
そして、隠し持つ物語と現実はかい離している。
自分を守り、人を傷つけないことがかい離を生み、現実感を希薄にしていく。
それが現代人が抱えている虚無感じゃないのか。

同じ根につながっていない関係。
同じ文脈を生きていない人々が生きる社会。
近いのに遠く、楽しいのに虚しくさみしく、一緒にいるのに一緒にいない…。

暴走しても、それを見ているしかできないような、希薄なつながり。

隠されていれば、かい離していれば、演じていれば、誰も何も止められない。

僕たちは、他者の起こす振る舞いをただ傍観するしかなくなっている。
それがパレードのような現代社会の病巣。


【最後に】


共同生活をしている彼らはずっとここにいるつもりは始めからない。
最後のほうに書かれているが、近いうちに部屋を出て行くようだ。
一緒に暮らしている、「ある者」が犯罪者だと薄々気付きながらも、今までとなんら変わらぬパレードを続ける。
確かに、一緒に住んでて犯罪者がいるってなんとなく気づいているのに、何も言わず何もしないで今まで通りなんて狂ってる。

だけど、社会にあてはめて見てほしい。

僕たちはこんな社会じゃ犯罪者が出てもおかしくないと気付いている。
犯罪者を報じるニュースでも隣人・知人などの「いい人だったのに…」という言葉を聞きながら、見ながら他人事ではないと気付いている。

それでも気づかぬふりをしながら、こうして今もパレードを続けている。


このままじゃいけないと思いながらも何もできず、結局変わらぬ日常を送る。

僕らは自分の生活を自分の心を守ることに追われ、いつしかそれが当たり前になった。

これから何ができるのだろうか…。
パレードを終わらせることはできない。それが他者と共に生きることだから。

ただ、そのパレードの中から人と人との深い関係が生まれるのは確かだ…。
そこで生まれた関係が、これからもパレードで仮の姿を演じ続けていく現代人が、本当の自分に帰れる場所になるんだと思う。
すべては弱さを受け入れることから始まる。そう僕は思う。

―――――――――――――――――――――――――――――

自分でもいろいろと頭の中で考えがまとまらず、読みにくかったと思いますが、お付き合いありがとうございました。
人間関係についてはこれからも思いついたことや考えたことなど綴っていきたいと思います。