巨流アマゾンを遡れ (集英社文庫)/高野 秀行
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久々に高野氏の本です。相変わらず読みやすい。何だか読みやすいから、どんどん読んでしまって、その日のうちに終わらせてしまおうと、さらにどんどこ読んでしまうのです。


一度、絶版になっているらしいのですが(その理由も巻末に掲載されています)、そんなおかしいと思う面白さです。



汎化であり、唯名論であり、普遍的な共通概念をベースに世の中を解読するという姿勢だけではどこかで行き詰まるような気がする。


そのような一方的な姿勢だけではなく、徹底的な実存主義こそが、いわゆる”ぼんやりとした不安”を解消しうるネタになるのでないか。


って、誰かもうすでに言ってそうなことを言ってみました・・・。


誰が言ってるんだろ。

”替え”の効かない人間になること。

誰もがやらないといけないと思っているけど、誰もがやろうとしないことをやる人間になること。


今年の気づきとして大きかったことはこの二つだと思う。


あとは試練というものに大して前向きになれたのは大きな収穫だった。出来るだけ楽をして仕事をするというのはちと違うなということに気付いた(いまさら)。自分に対して最大の伸びをもたらすことが出来るものに貪欲に行きたいなと思う。




全ての人間活動が社会的な活動だとする。”社会的”という部分の根幹を為す一つは、”交換”だ。


物、情報、人などあらゆるものを交換することが、根本的な”根”の一つだ。


そして、交換する、という行為のまさにその重なる瞬間に”機”が生まれる。


”機”は重なりであり、何かが生じるタイミングだ。そこで生じるものこそが”価値”だ。


”価値”の質的、量的な意味はさまざまなはずだ。


このモデルを本当に人間活動の基本的なモデルとして認識すると、今の現場作業などで不作為として生じている問題の解決の種になるのではなかという、気がする。


いや、気がするだけですけど、ほんま。


人間活動の基礎モデルを提供しないと、何がエラーになっているのかということは、どの要素がどれだけ基礎的なラインから外れているのか、という視点に立って言うことができない。


つまり、皆が統一的に意識できるようなモデル(イメージ)がないと、理解するまでにまず時間が膨大にかかってしまうということだ。


そういうコストを削減して、さくさく仕事を進める(人間同士の認識を合わせる)ためにも、何か一つ仮説的なモデルが必要になるはずなのだ。


でも、何でそういうことって今まで行われてきていないのでしょうか。


実は行われていたけど、私が知らないだけなのでしょうか。


ん~。偉い学者や研究者は部屋で研究しているのだろうけど、実際にそういうことをフィールドに生かす位置づけの人はどういう社会的な地位で、どういう職種の人なのだろうか。


私はそういう場所で仕事する人になってもいいですよ。


飯食えるなら・・・。

本当に最近の話なのであるが、”言葉”を惜しむようになった。

”言葉”が惜しいと感じるようになった。


説教ごとというか、いろいろと自分から話して、「結局、自分が気分良くなって、相手が本当に価値を感じないという言葉」を放つべきではないのかなぁと漠然と思う。


”言葉”は贈り物であり、相手がその言葉に価値を感じてくれないことには、その言葉に意味が無い。言葉を使って”何か”できていいる実感が、はっきりと伴わないのはそのあたりに理由があると思う。


だから、”言葉”を贈るのが凄く難しいと感じるのだ。


こう、そこではそういう事を言うのは間違っていると、他人に感じた時であっても、それを訂正することが「言葉を贈る」ことにはつながらない。「言葉を贈る」為には、もっともっと入力要素が必要であるし、特に贈るタイミング、時間幅の問題はなかなか見極められない。


相手が価値を感じないと、自分が贈ったものには”価値”はない。


相手がリアクションをとるまで、自分がやった行為に関しては”まず意味がない”のである、と気付いた時から、最近までちょっと話がややこしいのです。