ブログを引っ越ししました。



暑いです。



理由はありません。強いて言えば暑いからです。



そこがどこかとか関係ない。



理由など不要なのです。理由が必要なのは、まだ不純なのです。



ただ、それだけ、そこにあるだけ。



それくらいが本当にちょうど良いのです。



深く考える必要なんてどこにもない。本当にどこにもない。



そんな夏がはじまるのです。

黄泉(よみ)の犬 (文春文庫)/藤原 新也
¥690
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一昔前に物議を醸したらしい特集記事の文庫本です。内容としてはオウム真理教事件を受けて、70年代にインドを放浪した筆者の経験を踏まえ、この事件を現象として分析するものです。


その文章は森達也氏と通ずる体験感覚を、古今東西のテキストのもっともしっくりくるもので、再現するという類のものであり、正直その本当の深さに達している部分は読んでいても、まったく理解出来ません(しっくりと浸透させる感覚体験が私にはない!)。


いつかまた読み返した時に、全部わかったらやっとここまで来たかと感動を味わえる著作なのでしょうなぁ・・・。


都市の行き過ぎた不自然なまでの過保護さによって、生命を守られているはずが、逆に危機感を覚えるほどにまでなってしまう。そうまで追いつめられた人間が、宗教に助けを見出すのは、そう無いことではない。ただ、事前に危機感を覚え、その不自然さの中で耐性を高めてきたものと、そうでないものは宗教に対するアプローチが異なってあるべきだ。

何も準備せずに色んな異物を人間は、己に取り込むことは出来ない。消化することも出来ない。


まあ、なんかそんな感じの本です。




だめな人間も使いこなしていかないといけないよ、とアドバイスをくれたのは、東京でお世話になっていたやり手の会社社長である。


私としてもその社長の言葉は金言であり、薄っすらそれも正解の一部であることはわかっている。しかし、それを認めたくはないというより強い気持ちがある。


それは弛まぬ努力を続けている人間が報われるべきである世の中であってもらわないと困ると私が思っているからだ。


私自身がその”弛まぬ努力”を武器にして生きている人間であり、その武器を否定されるような存在を許していくと、どうしても自分のモチベーションを保つのが難しくなるのだ。


だから、まだ許さない。そのうち許す時期が来るであろうことは何となく予感がしている。しかし、なるべくそれを遅らせようと思う。10年後か、20年後か、もっと成功するなり、絶対的な能力を身につけるなりして、そのようなことがどうでも良くなる心境にまで達したら、それは許そうと思う。


ただ、まだそこへ至る為にも、今は許すことは出来ない。現在地点はそこらへんなのだ。

苦しくはないが難しい。非常に難しい状況にいるような気がする。


自分の気持ちと現状に折り合いをつけることが難しいのだ。


内面にもっている評価と外部からの評価は一致しないのが普通である。


このギャップを埋める為に、人はいろいろなことを為す。ギャップを認めないことで対処したり、まともにその差にぶち当たって乗り越えることで隙間を埋めたりする。


私の場合は状況に応じていろいろな手段をとる。逃げることは少ないが逃げることもあるし、正面突破もするし、作戦を使ってうまくやることもある。


今の状況もやはりアンバランスさのど真ん中、いや、その付近にいる。


東京で3年半の間にかなりの実績を積んだ。自負できるだけの評価も受けたが・・・、そのあとが続かなかった。


次のステージがうまく出てこなかったのだ。報酬面であり、仕事の難易度の面であり、魂の段階である。


人生はそう線形的にはいかないのかもしれない。いや、そうなのだろう。


ふと、そういう納得感があった。しっくりくる感じがあった。そして、ちょっと馬鹿らしくなった。


困難の次に、さらなる困難があった方がより面白いのだが、そうではなく、次に下らないものが来ることもよくあるのだろう。私的にはそこでモチベーションを保つことが出来なかった(だって、気を抜きっぱなしで対応できるのだから・・・)。


折角、良い国の良い時期に生まれたのだから、人生を贅沢に楽しもうと思う。


楽しむ為に、自然と暮らしがそのようになる仕組みを考える。


本当だよ。


4か月ぶりの更新となりました。

基本的に日々に思ったことなどは、短文にしてTwitterでまかなっています。

ある程度まとまった文章はこちらに書こうと思っているのですが、面倒くさいので放置していました。


近況としては関西へ戻り、平平凡凡&平穏無事な生活を送っています。

東野圭吾を読み、伊坂幸太郎を読み、久々に養老猛を読んでいます。


静かなる水面のような心境ですが、何かを狩ろうとはしています。


無暗に何か新しいものを取り入れようという焦りの虚しさから距離を置き、腹の底からしぼり出る源泉を頼りに何かを嗅ぎ分けようとしています。


今のところ何となく嗅ぎ分けられそうな、そうでもないような感じです。


その為にまず恰好から整えるという私的に珍しいアプローチでやってみています(意外と重要ですよね)。


運動し、ご飯を作り、酒を飲み、お喋りをし、本を読んで、よく眠る。


人生はこの繰り返しですが、この繰り返しをどこまで上質に(自分なりの上質)出来るかということに無頓着でした。そこに頓着しようと思ったのが、ここ最近の具体的な変化です。


炊飯器に拘り、小説に拘り、ソファに拘り、掃除に拘る。様々な拘りは身体的なフィードバックとして、確かな何かをもたらします(食わず嫌いとはまさにこのこと)。


運動したら何かが変わる。ご飯を食べたら何かが変わる。人と話したら何かが変わる。良くも悪くも。


身体経験を通して獲得出来るもの。それがどんなに小さい(私が小さいと思っている&思っていた)ものでも、そこに拘る価値はある。試す価値はあるのですねんというのが、この文章を書いていて途中で思いついたことでした・・・。