それでもボクはやってない
―――十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰することなかれ(法格言)
―――裁判は本来、検察側の有罪立証に対して、弁護側が合理的な疑問を差し挟むことができれば無罪なのだ(周防正行)
周防正行監督の 「それでもボクはやってない」 が公開された。
徹底的に刑事司法のリアリティにこだわって製作されたと話題の作だ。
周防監督は、「現役の裁判官、検察官、警察官には、話を聞こうとしても聞けなかった」、「だから『警察の取調べを受けた人』に話を聞くことになったが、事件や場所や時間を超えて、誰に聞いても同じ話を聞くことになった」、「それはそうした取調べの方法が、日本では手段として定着しているということだ」と言う。
そして、すべての原因は「自白証拠への偏重」、「否認すれば、何十日も勾留される人質司法」、「99%という異常な有罪率」にあると喝破する。
私が警察署の留置場に、140日余り勾留されていた最中にも、そんな光景は何度も見た。
本当にやっていないことまで「認めろ」と迫られ、「認めれば捜査を終わりにしてやる」とアメをチラつかされる反面、「認めなければ裁判に娘を証人に呼ぶ」と脅された保険金詐欺 。彼は結局やっていないことまで認めさせられる羽目になったが、彼の留置場への勾留期間は、この時点で6ヶ月を超えていた。
「男」は、供述調書の類を一切作らせず、また署名指印を拒否したので、その調べは徹底的に苛烈を極めた 。
秋田の事件では、任意での取調べがほとんど24時間続いていたことは、以前書いたとおりだ 。
私自身も理不尽な調べを受けた し、その「脅しに屈したこと」については、今でも悔しさで煮えくり返る。
刑事だけでなく検事も脅すから 、自白誘導にわかっていながら乗らなければならない。
そうして、そうやって有形無形に脅されて、任意ではなくほとんど強制をもとに作られた供述調書には、これまた圧力により「認める」という意味の署名指印をさせられ、法廷に提出されて晴れて「証拠」となるのである。
提出されたあとに内容について法廷で否定しても、「じゃあなんで署名指印したんだ!」と、検事に怒鳴り飛ばされるのがオチだ。
「有罪率99.9%という日本の現状は、世界の常識から見てとんでもなく異常」と周防監督は言う。
警察や検察の描いた絵に沿って自白させ、後付けで証拠を出す(=現行の刑事訴訟法では、検察側は集めた証拠をすべて提出する義務はない。よって不利な証拠は意図的に排除することができる)方法も一因だし、国連から何度も改善を勧告されている代用監獄の存在や、不透明な取調べ方法など、いろいろな要因が絡み合って、いまの前時代的な刑事裁判が存在しているのである。
「本当にやっていないことまで「認めろ」と迫られ」と書いたが、なぜそういうことになるのかというと、共犯者の自白との整合性からである。
ある犯罪者Aに共犯者Bがいて、その共犯者Bが先に捕まった場合、「○○の件はAに指示されてやった」、「××の件はAが1人でやったことだ」と「自白」して、それが証拠採用されて確定判決となった場合、捜査機関にとって何が真実であるかはもはや関係がない。
Bの自白を取った自分たちの捜査との「整合性」だけが問題になるのであって、真実は無視され、Bの供述通りにAの自白を「導く」ことになる。
だから「本当にやっていないことまで「認めろ」と迫られ」ということになるのだが、こんなことは日本中で、実は日常茶飯事のように行なわれているのだ。
最初に戻るが、これが日本の刑事司法が「自白証拠へ偏重」していることの副次的な弊害である。
自白調書が安易に証拠として採用されるがゆえ、立証するために「否認すれば、何十日も勾留される人質司法」となり、たとえ真実ではない証拠でも立証されさえすればそれが「作られた真実となるがゆえに、「99%という異常な有罪率」を生み出しているのだともいえる。
もしかしたら裁判員制度は、この部分に光を当てうる可能性があるかもしれない。不自然なことを不自然だと思う「市民の目」を、否応なしに捜査側も裁判所側も意識せざるを得なくなるからである。
SmaSTASION ! ! を見ていたら、池上彰氏が「それでもボクはやってない」について、「もし自分が勾留された場合にこういう精神状態になるということは、知っておく必要があると思う」と言っていたのが、わが意を得たりという感じだった。