こんなことがあるのか
今晩、通勤電車の車中で小学校のときの担任に会った。
5・6年の担任だった男性教師で、ウン十年ぶりのことなので、私は面食らった。
最近、小中学校のときのことを思い出す機会が多かった。
そのころの同級生とひさかたぶりに再会し、そいつが子供を連れているのを見て、否応なしに時の流れを意識してしまったからだ。
乗り込んできた瞬間にあれと思ってぎょっとしたが、話しかける勇気はなかった。
私は街で誰かに会っても、照れくさくて声を掛けられない人間だから、なおさらだ。
ましてや私は、ウン十年ぶりに誰かと会うという経験をしたことがなかった。
しかし席の端に座る私の横に立ち、よれた新聞に目を落とす普段着姿の初老の男性がN先生だったら、これは運命の偶然というよりほかない。
私は最初席の真ん中に座っていたが、端が空いたので途中駅ですかさず移ったのだし、もしこの電車のこの車両に乗っていなかったら…?
もしこれが人間の持つ見えないパワーの導きなら、声を掛けないことは天に対する失礼というものだ(私は無宗教だが、こういうことがあるとそう思わざるを得ない)。
そんなわけで勇気を出して、「あの、失礼ですが、N先生でいらっしゃいますか?」と小声で話し掛けたら、そうです、と小さく肯かれた。
思わず私は席から飛び上がって立ち上がり、「僕、○小で先生のクラスだった○○です!」と挨拶してしまった。
聞くと先生の下車する駅までは10数分ある。お話させていただいていいですか? と伺うと、いいですよ、と快く応じてくれた。
私の学年を受け持ったとき、先生は30代の半ばで、男として脂が乗りきっていたのではないか?
私生活でもその2年間で結婚をし、子息をもうけておられた。
ポーラのオーデコロン(店頭販売をしておらず、入手方法が特殊だ)を愛用していたし、若く、情熱的な教師だった。
当時は愛情や思い入れと勘違いして、やたらと手を上げたがる馬鹿も少なくなかったが、この人は子供に手を上げたことがなかった。
また教育に対する熱情や、子供に対する愛情を白々しく語る恥知らずもいたが、この人は始業式の日の自己紹介で「奨学金を返さなくて済むことになるから教師になった」と話した。
私にとっても印象の強い先生だが、先生も私の学校を、「10年いたし、印象の強い学校だ」とおっしゃった。
私と同学年で、先生にまだ年賀状を送っている男がいるようだ。
背が小さかったが顔立ちの整っていたH、私と仲良しだったS(双子の子がいるという)、自転車屋のW。
そんな昔の友人たちの話になった。
先生も昔の話だと言うが、学年も間違えず、よく覚えている。
私のなかにあるN先生の印象は、ジャージ姿の「大きい人」そのままだ。
だが、席から立ち上がった私の目の前にいる初老の男性は、往時の面影を残してはいるが、私よりもだいぶ小さくなっていた。
当たり前だが先生が縮んだのではない。私が伸びたのだ。
私の体つきを見て、「ずいぶん立派になって」と先生はおっしゃった。
「息子もね、ずっと浪人してたんだけど今年やっと大学に入ったよ」と小さくつぶやく疲れた様子のその人は、もはや若かりしあのときの先生ではない。
これが、時の流れというものなのだろうか。
先生のことばかり言えた義理ではない。
私も二十歳を過ぎたころからいろいろあって、生々流転の日々だった。
しばらくこの土地を離れていたし、一歩間違えば死んでいた大怪我もしたし、髪は生え際が後退してきたし、腹も出たし、逮捕もされた。
まあお互いに、「いろいろあった」のだ。
(つづく)