東条愛子はお茶の水女子大学文教学部卒で早稲田大学の大学院で法学を学び、衆議院事務局にトップの成績で合格した才媛で、現在、衆議院調査局・法務調査室長という地位に就いているキャリア・ウーマンだ。
四十一歳、独身。特に美人というわけでも無く、細身で小顔で清潔感に溢れ、上品で愛想も良い。
四十代後半のフリーライター・牟田昼夜は、そんな愛子の私生活・・・特に「一流大学卒の四十代独身女性のセックスライフ」というテーマで取材を申し入れていた。
もちろん愛子のことは匿名で職業も国家公務員としか明かさない・・・という約束で。
最初は断られるが、愛子は取材に応じ、彼女のこれまでの「女」としての生き様を赤裸々に語っていくのだった。
彼女は十九歳のとき、二十三歳のとき、そして三十二歳のときに妊娠し、三回とも迷わず中絶していた。
最初は事故みたいなものだった。だからすぐに中絶した。
しかし、そのときの屈辱感、虚無感、痛みを一人で耐えた愛子に、のうのうと連絡してきた相手の男・根津に愛子は復讐する。
二度目の相手は芸術家だったが、精神的に不安定な男だった。
そして何も言わずに海外に行ってしまった。
愛子はそのとき妊娠していた子供を迷わず堕ろした。
二度目ともなると同意書の偽造も手慣れていた。
でも手術した医師の失敗により、もう一度手術をするハメになる。
二度目の手術を担当した女医は「大丈夫よ、赤ちゃんはちゃんと産めるから」と微笑んだ。
いっそ産めない身体になってくれた方が良かったと思う愛子の心とはうらはらに。
三度目の相手は現役国会議員を父親に持つ二世議員だった。
「愛子に子供を産んで欲しい」と言われた。それがプロポーズの言葉だった。
相手の男・砂岡は申し分の無い相手だ。
だが、せっかく努力して築き上げた地位を「産休」という形で離れることで、誰かに取られるのでは無いかなど、仕事と出産を天秤にかけてしまうような数ヶ月間を悩みながら過ごした。
五ヶ月後、ようやく決心して砂岡に返事をしようと思っていた矢先、砂岡が結婚すると先に切り出してしまう。
愛子にプロポーズした直後にお見合いしたと言う。
愛子と同時進行で他の女と会っていたということだ。しかもその女はすでに妊娠しているという。
愛子は化粧室に駆け込み、彼に見せて返事をしようと思っていた胎児のエコー写真を捨て、迷わず中絶した。
結局、愛子は四十一歳でもう一度妊娠する。
今までは相手は何も知らないまま葬って来たが、今度の相手は愛子の妊娠を喜び、結婚することを前提に付き合っていた・・・はずだった。
しかし土壇場で愛子は、やはり産まない選択をしてしまうのである。
そんな愛子とは対象的に代議士夫人の近藤貴恵は三十四歳だが、不妊治療をしていた。
たまに集まる、かつてのお嬢様ばかりの同窓会では、子供が居ないのは貴恵とアナウンサーの百合だけだ。
笑顔で他人の家庭や夫婦関係などを遠回しにカマを掛けて聞いてくるような輩も居る。
貴恵は牟田の書いた記事を読んでおり、不快感を露わにしていた。
そしてその掲載雑誌にあった、十四歳の妊婦が生まれて来る子供の里親を探しているという記事に飛びつく。
牟田のもとには別れた妻が訪ねて来る。
すでに再婚しており、娘とも二歳の頃から会っていないので親子とも言えなくなっている。
元妻・慶子は四十五歳にして妊娠したことを告げる。
再婚相手が娘に気を遣って二人の間に子供は作らないと約束したらしいが、娘が成人したら産もうと慶子は思っていたと言う。
元妻の妊娠など牟田には関係ない。しかし、十九歳になった娘もまた妊娠しているのだと言う。
産める身体を持ち、産む機会がありながら産む選択をしない女。
子供が欲しくて産みたくて仕方ないのに、産めないために他人の子でも育てようと画策する女。
すでに子供はいるが、計画的にもう一人産もうと決めて、思い通りになった女。
愛子の「産まない選択」は非難されるかもしれないが、この本を読むとその選択もあるような気がしてくる。
愛子のセリフを借りるのだが
「(今はもっと早いが)十四歳で初潮が訪れて五十歳まで続いたとする(個人差あり)。規則的に毎月一回訪れて三十六×十二、妊娠出産を差し引いても四百回ぐらい女は赤い不純物に悩まされる。ときには痛みを伴い、ひどい人は通院までしている。不公平だ」
産休を取っているうちにも、職場に自分の居場所が無くなるのではないか。
愛子のようにエリート街道をひた走り、それこそ人生を掛けて築いて得た地位には未練がある。
子供を育てられるのか・・・元気な子が生まれるのか・・・体力は付いていくのか・・・。
四十歳を過ぎての妊娠にはリスクが伴う・・・それも怖い。
そうやって悩んでいる愛子の前で、相手の趙は呑気にタバコを吸い、ビジネスの電話をかける。
途端にお腹の子のために、飲酒を控え、栄養バランスを考えて食事に気を配り、これからの生活に悩み抜いている自分が惨めになる・・・女は損だと思う。
愛子はこうも言っている。
「産みたくないのに産んだ方がかわいそう。この世に誕生する前に処置してあげた方が罪が浅いと思う」
対する貴恵の言葉はもっと辛辣だ。
「産めるのに産めないなんて、一番かわいそう」
私は息子を産むまでに三年掛かっている。
二人目不妊で悲しい思いもした。
「一人っ子はかわいそう」「もう一人くらい産まないとね」「次はまだ?」
ようやく「お子さんはまだ?」から解放されても、そんな容赦ない言葉から解放されることはできなかった。
そうこうしているうちに婦人科の病気に掛かってしまった。
「産めるのに産めないなんて」という言葉は、たぶん私も言ってしまいそうだ。
けれど、一人息子を育てる機会を得たことで、子育てがいかに一人では難しいことであるかを痛感した。
我が家はずっと夫が単身赴任だったため、ほぼ母子家庭状態だった。
仕事も持っていた。
人一人を育てる責任と怖さをイヤというほど味わった。 (その倍くらい楽しさも喜びもあった!)
そしてこの少子化の時代、子育ての出来ない親が増えていることを心から嘆かわしく思っている。
産んで・・・生まれて来て、辛い思い、寂しい思い、怖い思い、ひもじい思い、熱い思い、痛い思い、寒い思い・・・そんな経験をして、そんな経験だけしか出来ずに死んでしまう命なら、産んでも育てられない、愛することができない命なら、産まない選択をすることの方が罪が浅いという愛子の言葉も間違っていないと思う。
誰が間違っていて、誰が正しくて、何がいけなかったのか、答えはどこにも見つからない。
女性なら、誰かの言葉に共感することができると思う。
むしろ、男性に勇気を出して手に取って欲しい一冊かもしれない。
わからないかもしれないけど。