
先日八月一日の日曜日、母と父の菩提寺で行われた「お世餓鬼」の法要に行って参りました。
「お世餓鬼」というのを知ったのは父が亡くなってからです。
毎年、案内状が届いていたそうですが、定年を過ぎても生涯現役で仕事を続けた父は、仕事を休んでまで行くという選択肢の無い男でしたから、とうとう一度もその行事に参加することはありませんでした。
その代わりと言うのでしょうか、父の亡くなった年から母は毎年この法要に出かけるようになり、私も同行するようになりました。
父は毎朝毎晩神仏に手を合わせ、どんなに深酒した夜も読経を欠かさない信心深い人でした。
母も子供のころから母の祖母が大変信心深い方だったそうで、その影響でとても神仏を大切にする人です。
そんな両親を持ちながら、私のように信心の浅い者には、仏教に限らずですが宗教の考え方や教えというのは難しく、正直今もお世餓鬼が何たるや?という状態です。
仏教において迷いのある者が輪廻するという、六種類の迷いの世界を「六道(りくどう、ろくどう)」と言うそうです。
その名の通り、六種類の迷いの世界があるという訳です。

「お世餓鬼」というのは、この中の「餓鬼道」に落ちた餓鬼たちを救うために行われる法要なのだそうです。
ワタクシ、宗教論者ではありませんし、いたって不信心きわまりない罰当たり者ゆえ、宗教的なお話はこの程度で。(^^ゞ
冷房も無い自然の風だけが吹き抜け、風がやめば暑くて頭がボーッとするような気温の中、お寺の住職が、さしずめ「百人一首」の「蝉丸か?」と思うような装束を更に豪華に暑苦しく重々しくした感じの袈裟を最高位の紫の法衣の上にまとって現れます。
六人のお上人の読経の中、厳かに儀式が進んでいくのを私たちはずっと見届け、途中でお焼香もします。
さすがのお坊さま方も暑さが堪えているでしょうに、パタパタ団扇や扇子で扇ぎながら見ている檀家たちの前で汗を拭う素振りも見せません。
その後、和尚様のお説法が一時間ほどありまして、ちょうどお昼というときに用意されたお接待を受けてから帰ります。
毎年同じことをしているのに順序を忘れる私は、和尚様のお説法の内容も席を立つと忘れてしまう不届き者ですが、今回、金子みすずさんの素敵な詩を教えて頂いたので覚えて帰りました。
『大漁』
朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の底では何万の
鰮(いわし)のとむらい
するだろう
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の底では何万の
鰮(いわし)のとむらい
するだろう
なんて優しい詩だろうと私は思いました。
大漁の魚たちを見て、海の中の悲しみを思いやれるなんて。
ようやく落ち着き始めた、宮崎県の口蹄疫問題で、多くの家畜動物(牛・豚)が殺処分されました。
手放す家畜に最後のご馳走を与え、死出の旅に出ていく家畜たちは丹精込めて育てた可愛い我が子も同様だったでしょう。
見送る畜産農家の皆さんの気持ちを思いやった方もいたことでしょう。
スーパーに行けば、多くの魚介類、肉類、そして野菜・・・ごく普通に並んでいて、誰もそこに命の存在を考えてはいないと思います。
いちいち考えていたら、食事なんてまともにできません。
あ~考えた事もなかったと気付かされ、すぐ忘れる私ですが、この詩は心に留めて帰りました。
仕事が休めず一度も行けなかった父。
まったくあわてん坊で、さっさと死んでしまいましが、今年の法要は日曜日だったので今頃「早まった!」と悔やんでいるのではないでしょうか。(笑)
あわてん坊な父のことなので、八月の到来とともに「お盆だ、帰らないと」といそいそ仕度をしているかもしれません。
もしかしたら先日、一緒に車に乗って帰って来ちゃったかもしれません。
母のそばで一杯やってるかもしれませんね。(笑)
