金星音楽団でセロを弾くゴーシュは、セロ自体も悪いけれど、ゴーシュが下手な弾き手であるために楽長から叱られてばかりでした。
 
みんなの前で何度も叱られたゴーシュは楽器を持ち帰り、毎夜の猛練習を始めます。
 
そんなゴーシュのもとに現れたのは一匹の三毛猫。
 
ゴーシュの育てたトマトをお土産にやって来て、ゴーシュに演奏をねだります。
 
そんな三毛猫に腹を立てたゴーシュは、わざと嵐のような激しい曲をかき鳴らし、三毛猫は目を回してしまいました。
 
翌日には、カッコウがやって来てゴーシュに音階を教えてくれと頼みます。
 
ゴーシュはイラだって冷たくしますが、あまり熱心に頼むので付き合ってあげますが、カッコウがどんなに歌っても音階にはなりません。
 
ゴーシュに追い立てられるように出ていこうとするカッコウですが、窓のガラスにぶつかって倒れてしまいます。
 
何度もぶつかっては落ちるカッコウを見て、ゴーシュは立て付けの悪い窓を壊してカッコウを表に出してやります。
 
次の日はタヌキの子がやって来て、音楽に合わせて太鼓を叩きます。
 
太鼓といっても太鼓があるワケではなく、持ってきた棒で床を叩くというものでした。
 
タヌキと合奏をしているうちに、ゴーシュは面白いと思っているのでした。
 
次の晩には、野ネズミが親子で現れました。
 
奇妙なことに、子ネズミの病気を治して欲しいと言います。
 
「俺は医者ではない」と突っぱねるゴーシュですが、野ネズミの母親は譲りません。
 
なぜなら、毎夜聞こえるゴーシュのセロの音色を聴いて、動物たちの病気が次々に治っていると言うじゃありませんか。
 
ゴーシュは子ネズミをセロの中に入れて演奏してみました。
 
すると本当に子ネズミは元気になりました。
 
ゴーシュはお腹を壊していた子ネズミのために、パンを恵んであげました。
 
そして訪れた演奏会当日。
 
第六交響曲を見事に演奏した金星音楽団は拍手喝采を浴び、アンコールまで起こりました。
 
楽長はゴーシュを一人、舞台に立たせます。
 
困り切ったゴーシュは、いつか三毛猫が目を回した曲をやけっぱちでどんどん弾きました。
 
果たしてゴーシュは楽長から、わずかな間にずいぶん腕を上げたものだと褒められたのでした。
 
家に帰ったゴーシュは、傷ついて飛んで行ったカッコウに思いを馳せ、「あのときはすまなかった。俺は怒ったんじゃなかったんだ」と言いました。
 
 
あまりにも有名なお話ですが、「どんなお話?」と聞かれて答えられますか?
 
私は読み返すまで内容を忘れていました。
 
子供の頃はゴーシュに良いイメージを持たなかったように思います。
 
三毛猫やカッコウに対する意地悪で威圧的な態度が、物語の主人公なのに好感が持てなかったのです。
 
今、読み返して日々動物たちが訪ねて来ることに「なぜ?」と思いました。
 
ゴーシュのセロには、動物の病気を癒す力があったからなんですね。
 
楽器をかき鳴らす振動や音に、そんな力があるとは・・・ゴーシュ自身も気付いていませんでしたが、読者の私もビックリでした。
 
ゴーシュが日ごとに優しくなっていくのは、子ダヌキとの合奏に楽しさを感じたり、自分のセロが役に立っているという、それまで下手でダメ出しばかりされていたゴーシュの自尊心を満たすものがあったからでしょうか?
 
心がささくれだっているときには、自分より弱い立場の者に対して傲慢な態度を取ってしまう・・・ゴーシュに限ったことでは無いでしょうね。
 
ゴーシュは人(動物)に認められることと、日々の努力が実を結ぶ喜びを得ることができました。
 
最後に可哀想なカッコウに申し訳ないと思ったゴーシュ。
 
腹を立てて追い出した、忌々しいはずのカッコウを記憶していて反省するところは、ゴーシュが根っからの悪いヤツでは無かったのだと思い、主人公に好感を持つことができました。
 
三十八歳で早世した宮沢賢治が三十一歳のときに書いた、最後の童話だそうです。
 
読み返して、子供の頃の感性とはまた違ったメッセージ性を感じ取ることができました。
 
私が手にしたのは、小学校三、四年生向きの絵本です。
 
小学生は、この物語をどんな風に解釈するのでしょうね?