1971年3月21日、この日一人の少女が反革命分子として処刑された。
生きたまま腎臓移植のために腎臓を摘出され、声帯を切られ、銃殺されたのだ。
彼女の埋葬をした昆(クェン)は、彼女を屍姦した上に彼女の乳房や性器を切り取った。
一人娘を罪無くして処刑された顧(グー)夫妻の悲しみは深かった。
処刑された珊(シャン)の元同級生で政府幹部の息子と結婚した美しい凱(カイ)、賢く素直な童(トン)、身体的ハンデがあるため、一生結婚などできないと家事手伝いや兄弟の世話をさせられている妬妬(ニィニィ)、どこかずる賢い八十(パーシー)・・・様々な人々が、珊(シャン)の処刑を機に人生を見つめ直していく。
それぞれが善人では無く、どこかずる賢く、生きるためには人を貶めることや無実の人間を告発し、死に至らしめる。
唯一、この物語の中で善人と言えるのは、華(ホア)夫妻だろう。
前にどこかで書いた言葉だけど、私はこの言葉に胸を打たれた。
親を失った子は孤児になり、夫を失った女は未亡人になるけれど、子供を失った元親にあたる単語はない。ひとたび親になれば、死ぬまで親のままだ。
本当にそうだな・・・と思いました。
むごい形で娘を失い、弔いさえさせてもらえない顧(グー)夫妻は、娘を失ってもなお親でしかあり得ない。
どんなに無実を叫んでも、たとえ無実を認められても、もう珊(シャン)の命は戻らない。
生きたまま取り出された珊(シャン)の腎臓は、どこかで誰かの命を救ったのだろうが、たとえ珊(シャン)の腎臓が生きていても、二度と娘は戻らない。
読み終えてもやりきれない思いでいっぱいになりました。