ドラマを先に見ての原作でした。
ドラマの出来がとても良くて、一回目から目が離せず感動しまくりの、いろいろ考えさせられまくりだったので、これはぜってー原作を読まなくては!!と思い、早速拝読した次第です。
ドラマをご覧になっていない方、またはドラマ版に興味をお持ちの方は、「テレビ」の書庫に拙い文章ではありますが、レビューをアップしておりますので、ご覧くださいませ。
原作では一部が希和子が薫を誘拐してから逮捕されるまでを日記のように綴られてあり、二部は希和子と離れて両親のもとに戻った薫=秋山恵理菜の苦悩の半生を過去を振り返る形で綴ってありました。
ドラマ版との決定的な違いは、秋山夫妻について、より詳細に語られているところだと思います。
ドラマでは、不倫をして希和子を結果的には捨ててしまった秋山丈博が優柔不断なダメ男のように描かれ、妻の恵津子に関しては、何も非は無いのに夫の不倫相手に子供を奪われた気の毒な女性として描かれていました。
しかし原作を読むと、丈博も別れようと距離を置く希和子にいつまでも付きまとう執着を持っており、一方の恵津子もパート先で知り合った男性と不倫をしていて、それなのに希和子の存在を知るや、希和子への嫌がらせ、罵倒、懇願とあらゆる手を使って希和子を苦しめています。
結果として、希和子は不幸にも子供を堕胎、そのせいで子供が産めなくなった「かもしれない(←ここはドラマと少しニュアンスが違ったようです)」ため、一目でいいから好きな人の子供が見たいと恵理菜に近付き、誘拐してしまう。
すぐには希和子に容疑が向けられなかったこともわかります。
恵津子の交際相手が別れるときになって「このままでは終わらせない」という脅しともとれる言葉を残していたので、恵津子はその男性の仕業と思ったせいでした。
恵理菜が手元に戻ってからも、父親は父親になりきれず、母親も母親になりきれず、恵理菜は誕生日もクリスマスも祝うことなく、周囲の好奇の目に晒され、それから逃げ続け、辛い人生を歩んだことがわかりました。
そういう背景があるせいか、友達も出来ず、友達と思った人もいつの間にか恵理菜と距離を置くようになり、気付けばいつも独りぼっちになっていました。
やがて恵理菜も家庭のある男性と恋をして妊娠しますが、ドラマ版では最初から産む気の無かった恵理菜も原作では最初から「このお腹の中の人には世の中の美しいものを見る権利がある」と言っています。
悪い女に誘拐された過去を持つ恵里菜は、ドラマ版のように希和子から貰った幼少期の記憶に深い母の愛情を感じる場面はありませんでしたが、子供を産むことで、父と母との関係を修復しようと前向きに考え始めるところはドラマには無い部分だったので、ああ、良かったなと思いました。
それからドラマ版では束の間の安住の地となったエンジェル・ホームについても詳しく語られていました。
そこで育ったがためにマロンちゃんこと千草の人生もまた数奇なものになっていました。
つくづくオトナは罪なことをすると思いました。
そのときの気分で感情を子供にぶつけたり、自分が辛いからと逃げて世間から隔絶した場所で人と必要以上に関わらずに過ごしたり、都合の悪いことは教えず、間違った概念を小さな脳に植え付けて行く。
「カラスはね、白い鳥なのよ」・・・もしも大好きな母親が子供にそう繰り返し話していたら、子供はカラスは白いと信じて疑わなくなるし、人から間違ってると指摘されると、指摘されることが不思議でならなくなり、いつの間にか「変な子」と呼ばれてしまい、孤立してしまう。
子供には何も責任は無いのに。
いつもオトナの犠牲になるのは、弱い立場の子供。
ドラマ版は希和子をヒロインに据えているせいか、希和子に同情が集まるような作り方をしていましたが、原作を読んでつくづく、希和子の罪が人一人の人生をめちゃくちゃにした行為だったこともわかるし、希和子をそこまで追い込んだ秋山夫妻も不完全な仮面夫婦だったことがわかり、もしも希和子が誘拐事件を起こさなくても、恵理菜は何らかの心の傷を抱えたままオトナになっていったに違いないと思えたのでした。
最初はヒロイン・希和子の顔が檀れいさんに重なっていたのですが、原作の希和子は檀さんが演じた希和子ほど純粋に母になろうとしてはいなかったように思えましたし、ドラマほどひしひしと伝わってくる悲しいほどの愛情もそこまで感じられませんでした。
そのせいか、ドラマはドラマ、原作は原作と、割とサクッと線引きができた気がします。
原作の素晴らしさがあってのドラマの健闘であるのは重々承知ではありますが、こればかりは原作を上回るドラマの出来が評価される気がしました。
むしろ先にドラマを見ておいて良かったな~と思っています。