1995年3月20日午前8時過ぎ・・・日本の首都、東京の大都心の通勤時の満員の地下鉄の中で猛毒サリンが撒かれ、地下鉄の乗客・駅員ら13人が死亡、7000人近い負傷者を出した無差別テロ事件。
 
当時の私はまだ仕事をしていない頃だったので、朝のワイドショーで第一報を聞き、何が起こったのかよくわかりませんでした。
 
最近では・・・そうですね、アメリカの同時多発テロ事件の模様をテレビでライブで見てしまったときの感じとよく似ています。
 
私たちは、ああいう一風異様な光景にどこか慣れている気がしませんか?
 
ドラマや映画で「作られた光景」を見慣れているからかもしれません。
 
本当に、実際に今起こっている大変な事件なんだ!と実感するまでに時間がかかるのです。
 
同じ年に阪神淡路大震災が起こり、その光景をテレビで見たときも、しばらくは呆然としたものですが、その衝撃も癒えない時期に起こったこの事件の異様さ、気味の悪さは今も忘れることはできません。
 
その後、この事件で使われた「サリン」という前年に長野で起こった「松本サリン事件」で使われた毒物が撒かれたことがわかり、特定の誰かを狙ったものではなく、民間人が無差別に「死ぬこと」を前提に撒かれたものと知ると背筋の寒くなる思いがしました。
 
オウム真理教の異様な活動は古くから知っていましたが、こんな大きな事件を引き起こして、こんなにも多くの人を苦しめてからじゃないと、法の力で何も彼らを弾圧することができなかったのかと思うと情けない気持ちになります。
 
悔しいのは死刑判決を受けても未だ執行されていないこと。
 
そして首謀者の松本智津夫死刑囚が何も語らない上に反省していないこと。
 
謝罪しないこと。
 
あのとき何の前触れもなく人生の時を止めざるを得なかった人たちは無念でしょうね。
 
死刑囚になっても「人」として刑務所の中で扱われていて、普通に寝食を行っているのかと思うと、私のような直接関係のない人間でも無性に腹が立ちます。
 
「はらわたが煮えくりかえる」という表現がふさわしいでしょう。
 
教祖がそんな「最低なタダのバカな男」とわかっても、今も存在し続ける教団にも大きな疑問を覚えます。
 
私は両親ともに信心深い家に生まれましたので、神仏は尊いと思ってはいますが、無宗教です。
 
神仏というのは「心のよりどころ」だと思うのです。
 
「宝くじが当たりますように」と願っても、当ててくれるのが神様ではありません。
 
その日、その日、何事も無く平穏に過ごせることが「幸せ」だとするならば、何事も無い日々を祈って何事も無く平和にその日一日が過ぎたことに感謝する・・・それが神仏の存在する意味ではないかと私は思うのです。
 
「ご神体」なるものが無くても、空に手を合わせ、大地に手を合わせることも立派な信心だと思うのです。
 
神様というものも人間が作り出したモノであり、神様に会った人などいないはずです。
 
人間というのは、魂の容れものだと言う方もいます。
 
魂が何なのか私はわかりませんが、この容れものに入った「私」という人間は、生まれてから死ぬまで人間でしか無いのです。
 
人間が神様になどなれるはずがありません。
 
たとえ神と崇められるような立派な行いをしても、人間は人間でしか無いのです。
 
なんで、人として最低な行いをした人間を今も教祖として崇拝できるのか、理解に苦しみます。
 
そこまで「マインド・コントロール」されている信者がいることが怖いです。
 
人が人をそこまで「マインド・コントロールできる」のかと思うと本当に怖いです。
 
話が逸れてしまいましたが、最初にお話したように、この地下鉄サリン事件や同時多発テロのような事件も映像で見ると、まるで作り物のように感じて、現場にいない人は他の身辺の出来事がそうであるように脳が忘却処理にかかっていきます。
 
けれど絶対に忘れてはいけないと思います。
 
戦争を人類が忘れてはいけないように。
 
大切な人を亡くした方々や、事件の被害者になられた方々にとっては永遠に忘れることのできない痛みです。
 
ずっとずっと語り継いでいかなければいけない事件だと思います。
 
忘れないことが間違った宗教団体の根絶と同じ過ちを二度と起こさないための礎になると思います。
 
そして何よりも被害に遭われた方々への供養だと思います。
 
偉そうなことを言ってしまいましたが、3月20日に寄せて私の切なる願いを書かせて頂きました。