元キャスターでジャーナリストの五十嵐今日子は一冊の本を出版した。
「太郎が恋をする頃までには・・・」
これは今日子が愛した、かつての夫、海地ハジメの作ったヒット曲のタイトルである。
そして「太郎」は海地ハジメの本名であり、今日子がこれから産み育てていく子供の名前でもある。
今日子は様々な思いを込めて、書き綴るのである。
海地ハジメの人生と彼を愛した自分の人生を。
業界の第一線で輝き続けるキャリアウーマン・五十嵐今日子は四十二歳の誕生日もたくさんの仲間たちに囲まれて、賑やかに過ごしていた。
そこに恋人の姿は無い。
彼には妻子がいるから。
誕生日の夜が間も無く終わろうとしているとき、一本の電話が掛かってくる。
電話の相手は、先日今日子の担当する企画で取材した、猿回し芸人の海地ハジメ。
「楽しい、ですか?」
海地ハジメは今日子にそんな言葉を投げかけて来た。
楽しいはずの夜、楽しかったはずの夜・・・本当はとても孤独だった今日子。
今日子にとって海地ハジメは「住む世界の違う人」でしか無かった。
泥臭く男臭く人間臭い男、そんな印象しか持たなかった。
だから彼から突然プロポーズをされたときは「ありえない」と思った。
そして「あなたとは住む世界が違う」と言ってしまった。
しかしハジメと何度か会ううちに、彼の話を聞いていくうちに、今日子は少しずつ彼に惹かれていることに気付き始める。
ハジメは今日子に一番辛いことを打ち明ける。
それは、ハジメが被差別部落出身者であること。
ハジメにもハジメの両親にも罪は無い。
ずっと昔・・・江戸時代の身分制度が作りだした恐ろしい差別意識だ。
貧しい人々や飢えた人々がいると、「あいつらを見てみな、あいつらは人間じゃない。あいつらに比べたらお前達は幸せじゃないか」と。
作物を植える田畑も与えられず、魚を捕る権利も与えられず、生きるために「人がやりたがらない仕事」を与えられ、人として扱ってもらえない。
どんなボロを着ても、何日ものを食べられなくても「あいつらよりはマシじゃないか」と優越感に浸るためだけに存在した人々。
過去にそんな時代があったために、四民平等の時代が来ても人々の心には根深い「あいつら」への差別意識が残ったのでした。
昭和の時代に生まれたハジメは、子供の頃から貧しく、友達もいなかった。
とうに身分制度など無くなっているという時代に、被差別部落出身というだけで、ハジメは「同じ人間」として見てもらえなかった。
父親は政治家になり立ち上がった。
母親も赤ん坊のハジメを抱いて一緒にデモ行進に参加した。
ハジメの本名は「太郎」。
「太郎」は日本人を象徴する名前。
「太郎が恋をする頃までには、差別のない世の中になっていますように」
今日子は、ハジメの話を聞いて「今の世の中にそんな考え方はナンセンスだ」と思った。
ハジメが被差別部落出身者であろうと、今日子が彼と結婚することに何ら障害にはならないと考えた。
そして二人はお互いの親にも会い(ハジメの父親はすでに他界している)、入籍を済ませ夫婦になった。
今日子は文書で仕事関係の人々にも結婚報告をした。
ただ、今日子の両親にも世間にもハジメの出自は、あえて話さなかった。
けれど今日子は、そのことをあえて隠したことそのものが、ハジメの出生を差別視していることであり、ハジメを深く傷つけていたことに気付く。
今日子は実家に帰り、両親に打ち明けるが、母親が強く拒絶反応を示す。
「離婚しないなら、親子の縁を切る」とまで言われ、今日子は苦悩する。
それからしばらくして、今日子の母親が脳梗塞で倒れてしまう。
「自分のせいだ」と激しく自分を責める今日子。
近く、今日子の仕事上での人々を招いて披露宴を開く予定だった。
何も知らなければ、両親は喜んで出席してくれるはずだった。
でも母が倒れ、一命を取り留めたとは言え、半身にマヒが残り、失語してしまった状態では披露宴どころではない。
「披露宴は中止にしよう」
そう言ったにはハジメだった。
「延期」では無く「中止」。
ハジメの言葉は今日子が言わなければならなかった言葉だったはずだが、ハジメから言われて今日子はなぜか違和感を抱く。
次にハジメが発した言葉は「結婚も無しだ」。
ハジメの署名捺印のある離婚届を差し出されてしまう。
ハジメは言う。
「二人が結婚することで誰かが不幸になってはいけないんだ」
今日子が両親にハジメが被差別部落出身だと話したときの反応を怒りながら、悲しみながらハジメに報告したとき、ハジメは「結婚する前に両親にちゃんと話さなかったこと」がいけなかったのだから、間違っているのは今日子なんだよと言った。
ハジメは今日子と出会って初めて本当の恋をしたと言った。
そして短かったけれど結婚生活はとても幸せだったと言った。
しかし、これからは違う。
ハジメが今日子の夫でいるだけで悲しむ人がいる・・・それは、ハジメにとっても今日子にとっても幸せなことでは無いのだ。
二人は心から愛し合いながらも離婚する道を選ばざるを得なくなる。
今日子の母は回復していく。
海地ハジメは日本唯一の猿回し劇団の座長として、活躍している。
ずっとずっと歌えなかった「太郎が恋をする頃までには・・・」を再び歌う姿がテレビに映し出される。
彼が再びその歌を歌ったその日は、今日子とハジメの結婚記念日だった。
今日子は知り合いの出版社の人から勧められていた私小説を書こうと決心する。
ハジメが「今日子の手で世に広めて欲しい」と願った「海地ハジメ」の真実の人生を。
当事者でしかわからない、まっとうできなかった真実の恋を。
海地太郎のために。
そして、今日子のお腹の中にいる、もう一人の太郎のために。
太郎が恋をする頃までには・・・と祈りを込めて。
栗原美和子さんという名前を見て、「あれ?この人ってドラマのプロデューサーじゃなかったっけ?」と思って借りて来たのですが、大当たり。
その昔・・・昔とか言っちゃいけないか??・・・数々のヒットドラマの影に彼女あり!という敏腕プロデューサーだった方ですよ。
表紙は男女の結婚写真だし、実話か!?と何度もあちこち本を見回してしまいました。
実話でも寓話でもいいのです。
つーか・・・こういう現実はどこかに実際に起こっているわけだから。
全然関係ないけど、最近テレビで漢字がどうやってできたかとか、言葉の語源だとか雑学を学ぶ番組多いじゃないですか。
つくづく思うんです、昔の人は想像力が豊かで頭いいなぁって。
私たちは出来上がったものを「これはこうだ」と教えられるばかりで、なかなか自分で開発ってしないでしょ。
ま、ネタが尽きてきたから新しいことを見つける方が大変なのかもしれないけど。
江戸時代の身分制度って、ものすごく人間の心理の裏側を見抜いた上で緻密に計算されたものだなって気がするんです。
「私は差別なんてしない!」と言い張れる人間が世の中いくらいるでしょう?
作中、今日子もハジメがどこの出身であろうと関係ないと言い切っているのに、両親に余計な心配をかけたくないと、ハジメの出自を隠してしまうんです。
あとから「あのときすでに・・・」と気付くのだけど、日常で私たちは気付かないうちに今日子と同じことをやってると思うんです。
たとえば・・・六人で走って五位でした・・・ビリじゃなくて良かったと思ったことありませんか?
成績が三百人中百番でした・・・まだ下がいっぱいいると思ったことありませんか?
ホームレスの人を見て「ああはなりたくないなぁ」と思ったことはありませんか?
理解に苦しむ言動をする人を見て「頭おかしいんじゃない?」と思ったことはありませんか?
自分の方が「あの人よりマシ」と思ってはいませんか?
私は心が痛いです。
自分だって大したことないくせに。
人間って、どこかで優越感に浸りたい生き物だってことを見抜いた「誰か」が作りだした「士・農・工・商」のどの身分にも属さない、「人でもない人たち」という身分。
平成の世の中になった今でも根強く残る、この差別意識は、人間の一番どす黒くて汚いくせに一番見えにくい部分に存在していて、しかも誰もが普通に持っているものだから、なかなか絶やすことができないのかもしれません。
本を読んで考えさせられました。
小説だから「他人事」なんですよね。
きっと身近に起こったら、笑って「そんなのナンセンス」って言えるかな?
周りはどんな反応をするのかな?
「あなたとは縁を切る」と言われたら、どんな気持ちになるのかな?
悔しいけど・・・私は、そのときの自分が想像できない。
その事態に直面した今日子が、想像できなかった事態に陥って、思いもしない方向に物事が進んで行ってしまったように。
私を弱虫とか人でなしとか、言いたい人は言ってください。
私は半端な正論を吐きたくはないから。
私も子供を持つ親として、深く考えていこう・・・と思いました。