幕末の横浜。

日本人だけでなく異国人も相手に商う女郎屋、岩亀楼(がんきろう)。

おときは子どもの頃から育ててもらった生人形一座の座長・熊三から女郎として売られるが、器量は良いが性格の暗いおときに女郎はできないと、岩亀楼の佐吉はおときを女中として買い取る。

おときは幼い頃に母親に死に別れ、父親に捨てられ、たった一人の肉親である兄の太吉にも置き去りにされ、ついに熊三からも捨てられてしまった。

自分で納得している。いや、そう思いこまないと生きていけない。

「私に幸せは似合わない」

いつの頃からか、おときの心の中に不如帰が住み着き、おときにつまらぬ期待などしないよう、幸せになろうなどと思わないよう囁きかける。

期待すれば裏切られる。

好きになっても嫌われる。

近付いて行っても離れていく。

そばに居たくても捨てられる。

みんなに見えている「真実」が、自分にだけ見えていないのではないか?

おときの底なしの孤独は彼女の心を歪ませ、本当に愛してくれる人、思ってくれる人の言葉すら受け入れることができなくなっていた。

そんなおときを束の間、女として側においた桜田という攘夷志士。

優しくは無かった。

けれどどんなに邪険に扱われても、その扱われ方の方が自分にふさわしいと思うおときには心地良い。

変に優しくなんかされたら、次のしっぺ返しが怖いのだ。

しかし桜田は、おときに愛想を尽かし、同じ岩亀楼の日本人館の一番花魁の亀蝶とねんごろになる。

冷たくされるのは構わない。

でも桜田が他の女・・・それも身近にいる亀蝶と、おときのいる同じ場所で閨を共にしているのは耐えられない。

おときの嫉妬心は亀蝶へ向かい、彼女を陥れ堕落させる。

亀蝶が消えても桜田がおときの元へ戻ることは無い。

兄・太吉は生人形を作ることに命を賭けているような男だ。

いかに人間に近い生人形を作るか、太吉は死人を見ては、その臓腑を写し取り、幼い頃はおときを裸にして、その姿を忠実に写し取った。

完成度の高い人形を作るため太吉は桜田に付いて回り、桜田が斬った死人の臓腑を見ては写し取り、やがて一体の生人形を作り上げる。

その顔はおときにうり二つながら、生きながら死んでいるようなおときのそれと違い、生きた表情を浮かべていた。

太吉の作る生人形には「蛍の石」という石を胸に埋め込んでいる。

心臓の役目を果たしているのだ。

桜田たち攘夷志士は、このおときにうり二つの生人形を岩亀楼に売りつける。

「亀遊」と名付けられた人形は、市井の人には人形だとは伝わらず、一部の上客しか取らない花魁として有名になり、桜田の陰謀で「異国人に身体を差し出すくらいなら自害した方がマシ」と言って見事に切腹して果てるという逸話がでっち上げられる。

「亀遊」は、桜田の手により切腹させられ、本物そっくりに作られた臓腑からべったりと血を流して朽ちてしまう。

「亀遊」人形に魂を注いでいた太吉は元通りの姿に戻そうとするが、「亀遊」が人形であることを表沙汰にしたくない桜田の手によって、おときの目の前で太吉は斬り殺され、「亀遊」共々焼き払われてしまう。

そのとき、おときは自分からけして離れようとしなかった不如帰を兄と亀遊を焼き尽くす炎の中に投げ入れる。

おときは桜田を愛してはいない。

兄を殺されても恨んでもいない。

おときの中にあるのは、桜田への執着だけ。

おときの歪んだ執着心は、やがて桜田を破滅に追い込んで行く。




苦しい物語だったな・・・。

おときがもっと「幸せ」に執着する女だったら、別の生き方があったと思う。

でも「幸せ」を望めば絶望したときの傷の深さをおときは知ってしまった。

だから二度と傷つかないように、これ以下の奈落は無い場所で生きることに安らぎを覚えている。

優しくされるのが怖い。

良い思いをするのが怖い。

だから魂を持たない生人形よりも生気を殺して生きる道を選ぶ。

みんなには見えている「真実」が自分にだけ見えていないのではないか?

この疑問って、すごく怖い。

自分だけが気付かないもの。

自分にだけ見えていないもの。

みんなにはわかっている、見えているから、あえて誰も教えてもくれない。

すごく怖い。

そしてすごく孤独。

最後は自分なりの幸せを見つけるおときだけど、少しもハッピーな気分にはなれない、後味の悪さは、この恐怖からは永遠に逃れられない気がしたからか?