夜中のドキュメンタリーで鬱病のライターの番組見たから思い出して、あと一章残して読みかけになっていた本を読み終えた。
摂食障害の取材対象の少女とライターのノンフィクションで、書かずにはいられなかつんだろう筆者の想いが痛い。
夢を持ちにくく、甘やかされてぬくぬく生きられる平和な社会。
貧しく戦争をすべく戦地に送り込まれることはない分、平和な社会で静かなサバイバルを生き抜くのは難しいことなのだろうか。
死んでもいいとか死にたいなんて誰でも思春期には思うことじゃないの?
どうせ死ぬなら家族や国のためにゼロ戦で突撃したい。そう信じて死んだ時代と比べ、生き方がわからないとドアノブで首を吊る時代。
自分の子供たちの時代には豊かな生活ができるようにとの先代の思いは、伝わらないものなのか。
私でも生きる意味が見つからなくなるときがある。というより、何もかもがめんどうになって全てをやめてしまいたくなるときがある。
なんのために生きているかはわからないけど、いつでも死ねるなら今じゃないだろ。とも思う。
本の中に自分と向き合い過ぎるのは危険というくだりがあったが全くそう思う。
自分の形は自分には見えず、他者からの跳ね返りで初めて自分の形や大きさを知ることができるのだから。
友達のかけてくれる言葉で信頼を知り、仕事して給料貰えば経済的価値を知り、家族に会えば血族としての自分を知る。
自分が何ものなのかを他者との関わりなしに考えるだけの頭デッカチを始めるとニートやひきこもりになるのだろう。
愛や感謝や努力や汗が裏切らないことを信じられれば、死なないと思うんだけどねぇ。
なんとなく気分が重いわ。