『俺がときどき訪れるその店は駅からも商店街からも少し離れた場所にあってなかなか見つけにくい。知らない人が行くことはない、そんな店だ。店の作りは一見ちゃんとした普通のショットバーだが洋酒に限らず日本酒や焼酎もありちょっと変わった酒も置いてあったりする。お値段そこそこでちょっとしたツマミもあったりして長居しやすく安い酒で粘っても文句を言われないので俺は一人でのんびり時間を過ごすことが多い。
夜も更けてくるとマスターの「解禁」宣言とともにちょっとした食事メニューが出るようになる。うどんがあったりスパゲティがあったり丼があったり時にはおにぎりだったりカレーだったりきな粉餅だったりと店の雰囲気にそぐわないっぽい料理もあったりするがそれもアリだと思わせるような独特の空気があるショットバーなのだ。そんな空気を察してか客にはちょっと変わった人が多い。どうやら一見常識人に見えるマスターが実は結構変わり者でその繋がりでちょっと変わった人がおびき寄せられてくるらしい。詳しくは知らない。
先日その店に行ったのは割と遅い時間だった。カウンターに座るとマスターが日本酒を勧めてくるのでそれを注文すると西日本の酒どころの吟醸酒がガラスの器に一杯となぜかきれいな三角の塩おにぎりが二個ほど皿に乗って出てきた。マスターの方をみると黙って頷いてからまたグラス磨きに戻ったので腑に落ちないながらもおにぎりを齧りつつ吟醸酒を啜った。意外に合うのが悔しい。
少し落ち着いて尻が席に馴染んできたのでポケットに突っ込んでいた文庫本を引っ張り出す。ショットバーのカウンターでおにぎりを齧りつつ日本酒を飲みながらミルトンの失楽園を読むというのはなかなか他人に説明しにくい状況だと思う。英文学のレポートの締め切りが近いので仕方ないけど。仕方ないのだけれど。
しばらく集中して読んでいるとふと隣の席に人が座ったのに気が付いた。この店で何度か見たことがある痩せ気味でスマートな白髪の男性だった。男性がマスターに勧められたのは日本のラムだった。グラスのラムと一緒に供されたのは黒々とした立派なかりんとうで、マスターの顔を見たらこちらを向いて頷いてからグラス磨きに戻ったので多分問題ない組み合わせなのだろう。男性が甘党なだけかもしれないけれど詳しくは知らない。
カウンターの隣席でかりんとうを齧りながら頷いている男性をちら見したら目があったので軽く頭を下げるとニヤリと笑ってきた。どうやら日本酒とおにぎりの組み合わせに気付かれたらしい。
黙っててもよかったが敢えて「で、どうなんです?」と訊くと「…悪くはない。ちとくどいか」とのこと。黙ってマスターの顔を見ると軽く頷いてグラス磨きに戻ったのでこれはマスターの想定通りなのだろう。
男性がこちらを見ながら「で?」と言ってきたので「まずおにぎりが美味しい。これは高級米を炊き上げて丁寧に握っている、ひょっとしたら塩まで気を使っているかもしれない。吟醸酒はもちろん美味いのだがおにぎりとの組み合わせがいい。米の飯を食いながら米の酒を飲むのがこれほどとは…」といいつつマスターの方を見ると軽く頷いたあと横を向いてそっとため息を吐きがなら首を小さく数回横に振った。言っていることは間違っていないが言葉が多すぎるという意味かもしれない。そうでないかもしれない。
男性は「ほう」と言って少し躊躇してからグラスを持ち上げてラムを一気に飲み干した。それからマスターに向かって「わしにも日本酒を」と注文してからニヤリと笑い、こちらに向かってもう一度ニヤリと笑った。皮肉なニヤリというよりもいたずら小僧が共犯者に向けるような楽しみを思わせるニヤリで、これはなかなかの大人だと思わされる。
少し待ってカウンターに出されたのは同じ産地の別の蔵の吟醸酒と白い皿に乗った二個のおはぎだった。不意を突かれて軽く笑ってしまった。
男性は一口酒を飲んでから箸でおはぎを口に入れた。「おっ」と言ったままそのまま咀嚼しているので、ひょっとしてと思ってマスターの方を見てから「塩おはぎ?」と言うと力強く頷いてからグラス磨きに戻った。これは俺にとって今日一の出来だったと言える。サッカーで言うならPKからのキーパーのファインセーブ、野球で言うならセンター前クリーンヒット、卓球で言うならスマッシュのスマッシュ返し、カバディで言うならオフェンスを止めたくらいか。
男性がこちらを見たので「で?」と問うと「うん」と頷いてお酒をもう人啜り。この男性は日本酒とおにぎりの相性に興味があって注文したのではないかと思っていたのだがまさかの甘味が出てきてそれを本人が納得しているならまあ構わないのだろう。この男性が甘党だという推測はひょっとしたら正しいのかもしれない。マスターはそれを知っていて考慮したうえでの名采配なのかもしれない。知らないけど。
』
…本題にたどり着く前に眠くなったので寝る。