前々回、『パッパパラダイス』の歌詞を引用する際に


『がんばる君の最前列にずっといたい』


とこんな風に書いてしまったが、当然これは正確ではない。正しくは


『がんばる君の最前列に

 シュビドゥビ ドゥビドゥビ

 ずっといたい ドゥビドゥワ

 パッパパラダイス』


と書かなければならない。そう、今回のヒカルさん、スキャット風の歌い方をしてるパートが其処彼処にあるが、ここは厳密にいえばスキャットそのものとは言えないのだ。Wikipediaの「スキャット」の項の冒頭を引用しよう。


「スキャット (Scat) とは、ジャズやポップスなどで使われる歌唱法のひとつ。意味のない歌唱、たとえば「シャバダバ」「ドゥビドゥバ」「パヤパヤ」「ルルル」といったような音声をメロディーにあわせて即興(アドリブ)的に歌うこと。この歌唱法は、「歌」というよりも声を一つの楽器として表現する手法である。」


そうなんですよ。「歌」というより「音声」、声を楽器として扱うのがスキャットなのだ。しかしヒカルさんは『パッパパラダイス』で


『シュビドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥワ』


というカタカナ表記の“歌詞を歌っている”んですよ。


なんでそんなことわざわざ強調するんだどっちだっていいじゃないか変わりはしないだろ、と言われそうだけど、ここのパートにはちゃんと仕掛けがあるんですよ、歌詞としての。


本来のメロディの流れに沿えば、2行目の


『シュビドゥビ ドゥビドゥビ』


の“すぐあと”には


『ドゥビドゥワ』


が来る所なのだ。特にドゥーワップを聴き慣れてる人ほど次は「ドゥビドゥワ」だと半分無意識下に予測するだろう。それがセオリーだからね。しかし、その“ほんのちょっと先の未来に浮かぶドゥビドゥワの残像(イメージ)”にちょうどハマるように、代わりに


『ずっといたい』


が差し挟まれる。これは高度だよ。普通は“既に歌った”フレーズの子音や母音や音節数を合わせる事で音韻を“後から”踏むものなのだが、ここではそれより未来にやってくる『ドゥビドゥワ』に合わせた韻を“予め”踏むんだからこの『ずっといたい』は。“ドゥ”で書いてあってわかりにくいけどこれを“ず”と書き換えたら


『ずっといた〜ぃ』

『ずびずわ〜』


ですからねここ。つまり


『がんばる君の最前列にずっといたい』


という“日本語の歌詞”のラインと


『シュビドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥワ』


という“スキャット風の歌詞”のラインを同時進行で互いに絡み合わせながら韻を踏み合いつつサビメロ作ってんの。余りにぶっ飛びすぎてて最早笑えてくるよ。もちろん


『ずっといた〜ぃ』



「ぱっぱばらだ〜ぃ(す)」


とも韻を踏んでいるですよご覧の通り。ほんと、もう呆れて何も言えないわ。オーソドックスなスキャットと日本語の歌詞で二重螺旋みたいな音韻を構成するなんて。この人の作詞はどこまで進化するのやら。こんな凝った事しといて、この歌のリスナーのヴォリューム・ゾーンは9歳の女の子なんですよ、えぇ。ちっちゃなこどもがすっと飲み込めて何ならすぐに口遊めてる横でうちら大人は音韻の複雑さに頭を抱えて呻いてるんだから滑稽この上ない。全く、フルコーラスを聴くのが怖くて怖くてそれ以上に楽しみで楽しみで仕方がないぜパッパパラダイスはっ!


『パッパパラダイス』の歌詞で、如何にも小学3年生くらいの女の子向けだな〜としみじみ実感させるパートがこちら。


『斜め掛けしたスイカのバッグに

大事なものがいっぱい+キャンディor グミ

財布は入ってない』


このうち、『キャンディor グミ』に関してダンデライオンさんが興味深い呟きを投稿していた。


「↑この歌詞のキャンディとグミが引っかかって...

そういやお菓子って花言葉みたいに意味あったよな〜と思って調べましたら...

好きと嫌いの対義語の関係になっててびっくり」

午後8:47 · 2026年3月29日

https://x.com/Dandelion_L4N/status/2038221394258051276?s=20


ほへぇ、そうなんだ。全然知らなかった。“お菓子言葉”なんてものがある事自体知らんかったわ。なるほど、


キャンディ:好き

グミ:嫌い


っていうメッセージが添付されてるのね。花言葉みたいに。花といえば、小学生くらいの女の子だと、花びらを一枚ずつ千切りながら「好き、嫌い、好き、嫌い、、、」ってやるよね。その代わりに「キャンディ、グミ、キャンディ、グミ、、、」ってやんのかな? ふぅむ、9歳くらいのツボをヒカルさん、大変わかっていらっしゃるってことか? かつて自分も9歳の女の子だったアドバンテージをしっかり活かしてて素晴らしい。かつて子どもだった今の大人たちも懐かしい気分になるやつだ。



そう、この歌は、今まで何度も引用してきている通り、


『世界の子どもたち、そして大きくなった子どもである私たち大人みんなに』


子どもたちのみならず、大人たちみんなへの歌でもあるのだ。なので私は、この『キャンディ or グミ』の一節って直接


「大人世代も子ども世代も」


という意味を持たせてるのだと解釈してる。



昨今、特にここ10年くらい?グミの人気が鰻登りだ。コンビニでかつてガムが並んでいた棚にも軒並みグミが並ぶようになって久しい。そんな中、この間こんなニュースが報じられていた。


「グミ人気の勢いが止まりません。2021年から毎年売り上げを伸ばしてきたグミ。すでに販売金額でガムを逆転。25年には、はじめてハードキャンディの売上も上回ったことがわかりました。」

https://news.yahoo.co.jp/articles/951784866c7614302dd68964a352c77883a251c8


この記事は今年の3月30日付だが、メーカー単位であれば数年前から既にグミはキャンディを上回ってきてたケースもあったみたいね。


つまり、今9歳の女の子にとってはもう、お菓子売り場にグミが一番たくさん並んでるのが“普通”なんだと思われる。一方、大人の方の小さい頃は、まだまだグミはマイナーで、ガムとキャンディがメインだったはずなのよねこういうお菓子はね。なので、上述の歌詞は、


「あなたは昔こどもだった大人?

 それとも今のこどもなのかな?」


という問い掛けでもあるんじゃないかなぁ。


お母さんお父さんが自分の子に「昔はグミなんかそんなになくて、キャンディやガムだったんだよ」なんて話をする、そんなイメージで書かれたというか。イギリスでも同じ状況なら、ヒカルさんも息子とそんな会話をした事があるのかもしれないわね。


前回引用したヒカルのコメント、


『世界の子どもたち、そして大きくなった子どもである私たち大人みんなに』


というコンセプトを反映した歌詞は、他にもある。前に、


『羽ばたく君を追いかけた夏に』


の歌詞を取り上げた時に「夏に羽ばたくものを追いかけるとなれば蝉だよねぇ」なんて事を書いた。今考えると何だか先に種明かしをしたみたいで順番間違えてたね。(?)


本来は、


『がんばる君の最前列にずっといたい』


という歌詞からもわかる通り、この歌は「応援歌」なのだ。キプトラとかキスクラみたいなね。それを考えると、「夏に羽ばたく君」ってのは、例えば部活の夏の大会や発表会で成果を出して県大会や全国大会に進出していくともだちや恋人のイメージ、ってのがいちばんしっくり来るだろう。この場合の「羽ばたく」は「飛躍する」っていう意味だわな。


だけどもうひとつ、少し似ているが違う意味も込めているのだと思われる。この歌は単なる「子どもたち」に向けてではなく、『世界の子どもたち』に向けての歌なのだ。となると、夏の大会や発表会なんていう“日本ローカル”な意味だけではないはずだ。そう、大半の国は、9月に年度がスタートするんですよ。夏は進学や進級の季節なんですね。日本では3月4月の春頃にあたる。つまり、こちらの「夏に羽ばたく君」は、「進学して引っ越しちゃうともだちや恋人」なんかをイメージしてるのだと思われる。飛行機で飛んでっちゃうっていう「羽ばたき」だわね。あれですね、『Making Love』の『遠い町でもがんばってね』の気持ちですよね。なお『Making Love』も夏のイメージが強いけど、歌詞の上では『遠い過去の夏の日のピアノ』なので、今現在が夏かどうかはわかんない。んだけど、まぁきっと夏だよねあの歌も。


なので、日本ローカルの『追いかけた』は飛躍・活躍する君を応援しに各地に馳せ参じたという意味だろうし、グローバルでの『追いかけた』は引っ越す君の乗る飛行機を目で追うとかついついそっちの方向に駆け出しちゃったとか、そんな意味になるんじゃないかな。



…とかなんとか言ってるけど、フルコーラスで聴いたらこの解釈が破綻してる可能性も十二分に有り得るので、書いてて今既にいろいろと怖いですね。(笑) でもこういう時は毎度書いてますが、縛られない妄想を繰り広げられるのも断片的な情報しか得られてない時点での特権ですんで! イグアノドンの尖った破片をみて「ツノかな?」とか言ってられたのは、全身骨格が発見されてそれが親指だと判明するまでの間でしかなかったからね! 今のうちにこの「知らない」をせいぜい楽しんでおきますわ!


『パッパパラダイス』のサウンド面についてのお話は一旦置いといて、歌詞の話をまずするか。まだ90秒だけだけど。



まずはタイトル…『パッパパラダイス』の発音についてだね。もう散々言われてるかな。


宇多田ヒカルを昔から知る者なら誰しも、パラダイスというと『Automatic』の


『抱きしめられると

 君とparadiseにいるみたい』


の一節を思い浮かべる事だろう。もちろんヒカルもそこは自覚しているらしく、きっちりと“対照的”な歌い方をしている。


『Automatic』の『paradise』はご覧の通り欧文表記、アルファベットで書かれているが、ここはヒカル自身も言う通り、実際の歌唱は『para』の部分は表記通り英語発音、『-dise』の部分は表記とは“異なり”日本語発音で為されている。なので無理矢理文字に起こせば


「para-ダイスにいるみたい」


と歌っているのだ。歌詞をメロディの尺に合わせる為の工夫だね。翻って『パッパパラダイス』の方は、『パラ』の部分は表記通りほぼカタカナの日本語発音で歌われているのに対して、『ダイス』の部分は表記と異なり英語発音で歌われている。こちらも文字に起こすと


「パッパパラ-dise」


という風になる。つまり、


「para-ダイス」(Automatic)

「パラ-dise 」(パッパパラダイス)


ってことだね。見事に対比されている。


実際の世間での宇多田ヒカルに対する“イメージ”は、「日本語も英語も自在に駆使するバイリンガル・シンガー」ではあるが、流石にその歌唱の細かい発音の配分までは意識されていない。なので、『パッパパラダイス』の発音を聴いたリスナーの殆どは「『Automatic』と同じく、宇多田ヒカルらしい、いい英語の発音だなぁ」と感じるだけで終わる。一方、口喧しい極一部のリスナーからは「『Automatic』で使った単語をそのまま使ってくるなんて、過去の栄光に縋っていて安直だ」みたいな難癖をつけられかねない。そういうリスナーに対しては「そのままじゃないよ」と言い返せる枠組みにしてあるわけだ。いつものように、さまざまなレイヤーのリスナーへの響き方を考慮に入れた上で歌ってるのよね。


ただ、こういうのがほんの少しずつ積み重なると「オシャレ過ぎてとっつきづらい」と感じる9歳は居るかもしれないのよね。大人たちは『Automatic』も宇多田ヒカルも知ってるから「らしいね」ってクスッと笑えるけど、9歳は『Automatic』も宇多田ヒカルも知らないからねぇ。なので


『世界の子どもたち、そして大きくなった子どもである私たち大人みんなに』


というコンセプトと照らし合わせて、『大人みんなに』はうまくいきそうだけど、「子どもたちに」の部分は、「宇多田ヒカルお姉さんは英語がじょうずなんだ!」というイメージを持って貰えるかどうかで評価が分かれる、かなりチャレンジングな“タイトル・コール”になってはいる。


ただ、ですよ。ご覧の通りヒカルは「“世界の”子どもたち」を相手にしてるので、日本のちびまる子ちゃん視聴者のみならず、世界中のキッズリスナーへの届き具合まで考えると、恐らくヒカルがInstagramにアップした英文中にある『“Pappa Paradise”』がタイトルとして広まるので、そこは英語発音を盛り込んでおいた方が伝わり易いのよ。


恐らく、こういった「伝わり方の数々」を逐一考慮に入れた上で最終的にこの歌い方になったのだと思われる。有言実行、メッセージとして語った内容をしっかり作品の中で実践してくれている実例がこの「パッパパラ-dise」の発音なのでした。深く深く、考え抜かれてるね。


『パッパパラダイス』は自分にとって「口に入れたら物凄く美味しかったし材料が何なのかもわかったけれど、調理方法が全くわからない。」というかなり不思議な楽曲なので、まぁ単なるレストランのお客さんであるだけなら悩む必要はないのだけど、やっぱり厨房でヒカルさんがどうやってるか知りたいじゃないですか。好奇心てやつですね。


その『パッパパラダイス』のYouTubeでの再生回数は現在のところ約77万回。アップロードされて3週間近く経つ宇多田ヒカルの純粋な新曲としては異例の少なさなのではないかな? もちろん、5月6日以降にアーティスト・サイドからミュージック・ビデオがリリースでもされれば状況は変わるのだろうが。


ちびまる子ちゃんファンは毎週テレビで聴けるからいいとして、これはあれか、宇多田ヒカルのファンとリスナーたちからは、発売当時の『ぼくはくま』並に「イレギュラーな一曲」と受け止められてるってことかな? だとしたら非常に危うい。『ぼくはくま』も発売当時、ヒカル自ら「最高傑作かも」と宣ってそれはそれは力を入れてプロモーションしていた。2万枚を超える塗り絵コンテストの応募作品総てに目を通したりね。その気合いの入りようはなるほど自信作へのそれだった。ほんとこういう時、マーケットのメインリスナーと宇多田ヒカルの乖離は激しくなるのよね。


そう、「みんなのうた」向けの童謡ということで、20年前『ぼくはくま』に対してJ-popファンはほぼ総スルーだったのだ。そしてその直後に発売された『Flavor Of Life』は一旦ダウンロードの世界記録を更新するほど売れた。こちらの曲についてヒカルが最高傑作だと言った事はない。ライブで『First Love』の次に歌える歌という事で、相当の自信作ではあったけれど。つまり、『ぼくはくま』を書き上げたひかるにとって、世界記録を出すほどの名曲をリリースできたのは必然だったのだきっと。自信てのはそれほどデカい。


今一度ヒカルのコメントを読んでみる。


「色々なことを教えてくれたさくらももこさん作詞の「おどるポンポコリン」というとんでもない名曲で始まる番組の最後に流れる歌を書くプレッシャーを感じながらも...世界の子どもたち、そして大きくなった子どもである私たち大人みんなに、自分を大切に、愛する人を大切に、いつか思い出になってしまう今を大切に、優しく逞しく生きてほしいという思いがこもった「パッパパラダイス」という歌ができました。言葉ではない歌詞の部分や自由な展開を楽しんでください。」


『できました。』─どうよこの自信のあらわれは。これを市場のメインリスナーたちはスルーする気か??



『パッパパラダイス』がちびまる子ちゃんというこども向け、ファミリー向けのアニメのエンディング・テーマということでシリアスに捉えられていないのかな?? それこそ「おどるポンポコリン」をはじめとして幾つもヒット曲を出してきた枠なんだけどねぇ。


フルコーラスが解禁になったらまた事態が変わるのかなぁ? 自分の耳からすれば、もう既にこの90秒からしてぶっ飛んでる印象なのでこれ以上は果たして受け止め切れるか心配なくらいなんだけどな。


何度も繰り返し強調しているように、上記のコメントに見られる通り今回の制作にかけたヒカルの情熱ぶりは半端なものじゃない。エヴァ主題歌と同等以上の熱の入れようなのだから、出来上がってきた曲も相当の自信作な筈なんだ。それこそ「新たな最高傑作」と自ら宣言してしまいかねない程に。


ふぅむ、この流れだと『パッパパラダイス』の次にリリースする曲が大ヒットしたりするのかしらね? なんとも予想がつかないけれど、邦楽リスナーたちから外方を向かれてる間に私はヒカルの進化に食らいついていけるよう、引き続き過去の音楽を聴き直していきたいと思ってます。つまり、今週みたいな日記が来週も続くかもしれないってこと! あれだけ過去の宇多田ホーン曲をしっかり分析できた人間がこれだけ困り果ててるんだから、如何に『パッパパラダイス』が急進的な楽曲なのか、逆説的に伝わっていませんかね?? うん、負け惜しみですけどね!


これだけ解禁が待ち遠しい…のはいつものことか、「フルコーラスが聴けないのがもどかしい」楽曲も、もしかしたら初めてかもしれないわ。5月6日に私、人として生まれ変わるかもしれない。それくらいに、期待しています。


ヒカルがCoachella初出演してから4年か。今年は先日の宣言のおかげさまで今年の出演はなさそうで。本人名義のないライブやフェスを暫くはマークしなくてよくなったのでラクになって有難い一方、単純に露出が無い事は普通に残念。毎晩生歌聞かせてくれてもいいのよ?(最高に贅沢な人生。まさに嫉妬されるべきやつだな。)



さて話を戻して。前回までのAIの話、本来なら「AIの創造力、創発性、生成力はどれくらいまで成長するか」について詳細な議論を繰り広げたい所なんだけどまるごとオミった。専門的になり過ぎる上、結論は変わらんからな。



代わりに…というと少し違うのだけど、先日テレビでHANAのメンバー3人が『花束を君に』をカバーしてくれた件について。「HANA束を君に…?」とかくだらないことを呟きつつ聴かせてもらったのだけど、三者三様の歌い方をしてくれてて嬉しかったな。


ああいうのを見ると、同じ歌でも歌い方一つでその人の生きてきた人生や歌への取り組み方、音の聞こえ方なんかが伝わってきて実に興味深い。特にHANAのメンバーともなれば、YouTube等にオーディションの模様がたんまりと置かれてるので、それを観てきた人達からすればここに至るまでの人生の一部を実際に知ってるので多分、「この子ならこう歌うだろうし、実際そう歌った」みたいな見方が出来る。発売から10年ちょうど、オリジナルは勿論宇多田ヒカルの作詞作編曲歌唱でどこをどう取っても宇多田ヒカル印だらけなのだけど(それまでに見られなかった新境地がある事も含めて、ね)、やはり違う人が歌うとその人の歌になる。カバーの醍醐味の一つよね。


AIが進化したら、そういう「バックグラウンド・ストーリー」も“捏造”して歌う事が出来るようになるだろう。つまり、このようなパフォーマンス自体を創り出すことも出来るようになる。ただ、それって結局アニメのキャラクターが歌うようなもので、「全く違った創作物」でしかないのよね。そこに実在の人は居ないんだから。それだったら既に数多の異世界と他世界を生きている初音ミクが居るしな。AIを待つまでもない。匿名性・無名性・無記銘性こそ真髄だった筈のボーカロイドも、今やキャラクターの“人生”を背景にした表現もスタンダードになっている。それはフィクションであるけれど、だからこそ娯楽として忌憚が無い。つまり、生成AIの登場を待つまでもなかった。


Vtuberなんかも近い事になるだろうけどまだ世代を重ねて無いからこれからの話よね。一人のバーチャル・シンガーが名跡を継いでいく、なんてことも有り得るんだがそれも既に歌舞伎や大相撲でやってるやつよね。アニメの声優陣の交代しかり、ロックバンドでも大ベテランバンドが若手メンバーに次々入れ替えて殆ど原型留めてないなんてケースもあるし。生成AIはそれらをフィクションの上で手軽に出来るようになる。楽しみが増えるのはいいことだ。権利処理については言いたい事山ほどあるままですけど。


実際、Googleなど各サイトにAIが設置されてるので使ってみてるけど、早い話が「検索結果をまとめてくれてるだけ」だからな今の時点での無料AIくんは。劇的に効率は上がったけど新しくやれる事はそんなに増えてない。これまでも文章で検索したらある程度答えてくれてたし、今までの延長線上ですね。ネットに書いてない事はなかなか答えてくれないし。てか無料版だと制限がついてて目の前に書いてある事すら検索してくれない事もある。勿論、とんでもないスピードで進化してるのにビックリしてるのは間違いないんですけどね。でも、人生相談とかも、「掲示板での人生相談の模様」を要約してパーソナルカスタマイズしてくれてるだけなので、似た悩みを持つ人の相談風景を検索してきた今までの延長線上って感じだわね。


とはいえ、何より、昨日も書いたけど、大して変わらないのは「リスナーの体験」の方、消費者の方であって、作り手・送り手にとっては「劇的な効率の変化」は人生を覆される大きな出来事だからねー。また新たなラッダイトか、、、と溜息をついてるのは、それはそう。でもまぁ、それも情報技術に限らず、ずっと人間社会では続いてる事だからな。大手スーパーが来たから商店街が廃れた、ってのと似たようなもんなので。


宇多田ヒカルは余りにも唯一無二なので、そういう「侵食」に対する心配はまるでない。寧ろ、リスナーが必死で「こっちを向いて!」と引き留める必要のある存在だ。ヒカル自身が幾らうちらを見捨てないつもりであっても、状況がそれを許すとは限らないのでね…。


…何の話だっけ。まぁいいやこのまま送信するか。(安直)


前回の話の続き…よりかは少しステップバックして考えてみるのは、AIさんが身近になったら宇多田関連でどんなことができそう?ってテーマ。


最初に思いつくのは「なんでもヒカルにカバーさせる権」ですかね。既存の音源のボーカルをヒカルの歌声に入れ替えて「もし宇多田ヒカルが◯◯を歌ったら」がワンタッチで出来るようになったら楽しい。なお技術的には可能だけど著作権・著作隣接権共にアウトなので実現は不可能…いや結構無法地帯化してるからわからんのか今は…。


あたしゃやんないけどね。流石にそこまで行くとヒカルが嫌がりそうで。


『よく出来てるね〜これ!制作者に拍手。しかし、自分の顔を使ったコラ写真を見た時のような気持ち悪さが(笑) RT 

@koneton

: ニコニコ動画でヒカルさんの声を使った人力VOCALOIDの動画が話題になってるようです http://bit.ly/dUrBci』

午前10:32 · 2011年1月24日


https://x.com/utadahikaru/status/29350771824787457?s=20


15年前のツイートだけど、この人力ボカロに対して感じた「気持ち悪さ」が、自分と自分以外のものを無理やり接続されている不自然さへの嫌悪感と読むか、(現代の視点からみた場合の)完成度の低さに対する婉曲的な反応とみるか。早い話が「本当にまるでヒカルが歌ってるみたいに聞こえたら」どう反応するかを考えてみたい。


…とは書いたものの、AIさんの今の実力だと、「ヒカルよりうまく歌う」ってのは考えづらくてなぁ。既存のカバー方法を学習させてもヒカルに敵わないし、ヒカルの数少ない過去のカバーを学習させてもヒカルに敵わない。どうせ新しいカバーをするたびに新しい境地に踏み出すんだからねヒカルさんは。そういうアーティストなので、計算機を使った擬似カバー音源はヒカルにとっては「時間の無駄」「聴くだけ無駄」な気はしますね。リスナーの方が妄想を働かせる為に作るのが関の山で、公式公認にはならなさそう。


あたし個人も、脳内で歌唱シミュレートを好き勝手に出来る方なので、別に実際に鳴らしてもらわなくてもいいしなぁ。


やっぱりヒカルさんのカバーはびっくりするんすよ。オリジナルよりよくなってたりして。GREENDAYなんて余りにもクオリティが高かったから本家から商品化断られちゃったもんね(どうせお蔵入りのままなら一生こう言ってやるっ(←根に持ってる人))。「愛の讃歌」なんかは、アンセム化したスタジオ・バージョンもピアノ一本のライブ・バージョンもまぁ素晴らしくて何れもこちらが脳内で妄想するより遥かに素晴らしい出来で。あーあれももう15年以上前なのか。



…と、カバーひとつ考えても「AIはお呼びでない」感じになるのです。歌唱でそうなのだから更にクリエイティブな作詞作曲編曲に至っては何をかいわんやなのですよ。ヒカルさんが制作過程で使って手間を省く事はあっても(デモを作ってバンドメンバーに聴かせるとかね)、うちらに関係のある表れ方は一切無さそう。前回触れたように、VR技術のサポートとかならあるかもしれないけれど。


結局のところ、宇多田ヒカルのやってることはこれまでもこれからも常に「AIの学習元」でしかないのよね。ヒカルのやったことを習ってそれを真似るも至らず、を永遠にやり続けそう。我々が好きなのは宇多田ヒカルその人であって「宇多田ヒカルっぽい何か」ではないのですよ。今の世代のAIの創発性程度では何も起こらない。(余計な事を言えば、例えばメタルファンの私は「メタリカっぽい何か」が大量生産されたら案外喜んだりはします。)


なお、これは常に言う事ですが、こういった話はあクマで「今の世代の設計思想のAIに関しては」であって、次世代に「“単なる算盤のデカいやつ”を超えた、真性の人工知能」が生まれてきたら、この限りではありません。でもそれは現代の量子コンピュータ程度でも無理なヤツなので、はてさて私が生きてる間に出てきてくれるのかな? それはちょっと楽しみで、そこに至って漸くヒカルは“人工知能”の相手をするようになるでしょうね。まぁ人が作っただけで実質人だろうしねそういう存在は。やれやれ。


ふと書きたくなったので書く。


ファン企画イベント「UTADA GALAXY FESTIVAL 3」への再登場もアナウンスされたm-floのTakuさんが最近TwitterでAIについて言及する機会が多い。それを読んでると音楽業界にもAIの波が押し寄せてくる?どうなるの!?と不安になってる人もいらっしゃるかなと思うが、私の見立てによればリスナー側、消費者側には殆ど影響は無いと思われる。


理由は単純で、音楽業界に対しては、今のAIと呼ばれてる世代の計算機に至るまでもなく、だいぶ前から既に計算機による楽曲(半/準)自動生成が普及してきている為だ。確かに、AI世代の計算機によって今まで素人だった人すら瞬く間に作詞作曲が出来るようになって更にネットには音楽が溢れるようになるだろうが、ぶっちゃけYouTubeとサブスクの時点で音源の供給はとっくに飽和していて今更何桁増えた所でリスナーとしては影響はない。リスナー側でAIが活躍するのは、音楽供給自体より音楽検索の方であって、ならばそれは今までからのなだらかな延長線上でしかない。現時点でも各種レコメンドはかなりいいとこついてくれてるし、これは更に進化するだろうけどその進化自体既に日常なので特に新しくもないんだわ。


なお、制作者側はAIの影響が大きい。だからこそTakuさんは日々啓蒙を欠かさないのだけど、僕らリスナーには特に関係ないのである。あるとすればたびたび触れてる通りパーソナル・カスタマイズされた作詞作曲とかだが、今の文化の傾向ではニーズは限定的なものに留まると思われる。


音楽の即時性ったって、何千年何万年の昔からヒトは弦楽器を手に即興で弾き語りして目の前の出来事を歌うなんて文化はあるのだし、それが楽器を弾いたり声を出したりが出来なかった人にも開かれるってだけだからね。発信したい人に対しては己が人生を覆す大改革でも、聴く方に対しては殆ど何も変わらない。(僅かに変わる点に関しては私も色々考えてるけどここでは触れない)


そもそも、サブスクの導入以降、情報技術の与える音楽への影響ってもうそんなにないのよね。スマホで常に幾らでも音楽が供給されるんだし、とっくに需給は飽和してる。寧ろ“推し活”という言葉がイベントと舞台とライブを中心に語られる事が多いのでわかる通り、音源を直接商品として売る動機がほぼ無くなった(アナログ盤やCDは米津さんが言うようにグッズ扱いな)ので、「音楽は現場主義」という“原点回帰”がこの10年で起こっている。海の向こうでは倒産したタワーレコードが、日本では現場主義に重点を置いて近年過去最高益を記録したなんて話もあったわよね( https://diamond.jp/articles/-/355230 )。なので情報技術へのニーズは個々人へのレコメンドの精度向上に集約されつつあって、それはもうAI以前から何十年もずっとそう。ぶっちゃけ「自分に合うもの」を教えてくれるならそれが人でも計算機でもどちらでもいいだろう。その先で出会える「気の合う人たち」は人間であって欲しい事にはなりそうだけど。


(なお、VR技術は楽しみよね。お家でライブ会場に居る感覚を味わえる。ここでもAIが大活躍するだろうけど、リスナーにしたら技術の内実なんて知ったこっちゃないんすよ。結果的にライブ感を味わえれば何でもいいので。)



そんな風に考えてたら、「ロンドン在住で日本語の歌を歌う宇多田ヒカルさん」が今後世間にとってどんな存在になっていくのだろう?という問題設定が頭に浮かんで…という話からまた次回、、、かどうかはわかりません。今朝はこの話をふと書きたくなっただけなのでねっ。




P. S. こういう予想や予言の類の日記って後年読み返した時に物凄く恥ずかしくなるのよね。それがよくわくわかっていてなお書いたり上梓したりしてしまう私なのでありました。


『パッパパラダイス』アナログ盤、B面に何が入ってるか今から楽しみでならないわ。


流石に今の流れで「アナログ盤のみ収録の音源」は入れてこないとは思う。のだけど、「3年もすりゃサブスク配信されるだろう」と勝手に予想していた『First Love/初恋』ダブルEPのB面曲、『First Love (A Cappella Mix)』&『初恋 (A Cappella Mix)』は発売から3年以上経った今も未だに配信されず、依然として「アナログ盤のみ収録音源」のままなのよね。


正直、この素晴らしいアカペラ・ミックスがこのまま埋もれていくのは勿体無さ過ぎるなぁとも思いつつ、私個人としては、前から書いてる通り、しっかり録音してタグ付けしてiCloudミュージック・ライブラリにアップロードしてあるので、サブスク配信が叶った状態と何ら変わりなく楽しまさせてもらってはいる。


この、iTunes Matchからの流れでiCloudミュージック・ライブラリが使える所こそ、Apple Musicの、他のサブスクには無い独自の利点である。基本としては、ストリーミングされてないCD音源を取り込んでアップロードするのが通常の使い方になるのだろうが、自分のようにアナログ盤を録音してファイルを作成してアップしてもも何ら問題はない。一旦音源をアップロードしてしまえば最早ローカルに保存する必要なくネット環境さえあればどこでもストリーミングで聴けてしまうので端末の容量を心配する必要もない。まぁあたしゃ実際には全端末にローカル保存してますけども上記のアカペラ2つの音源は。


そして、サブスク音源と変わりないというのは、他の楽曲と一緒に新しくプレイリストを作成したり、「宇多田ヒカル&UTADAシャッフル」の中なんかで再生して貰う事も可能になるわけだ。本当に、普通に配信されてるのと変わりがない。なのでApple Musicは


「サブスクでストリーミングされてない音源もスマートフォンで聴きたいが、かといっていちいち再生アプリを切り替えたりするのは煩わしいし、他の曲とも途切れなく聴きたい。」


という人にはうってつけのアプリになっている。…って、いや待て私はAppleの手先とかじゃないぞ。なんで案件みたいな書き方になってるんだ。


…という感じなので(?)アナログ盤は注文済みだけれど、アナログ盤の未収録音源という形態は、出来れば避けて欲しいかなというのが本音だったりする。実際、この日記でアカペラ・ミックスの話をしてもリアクション薄いもんね。「うちじゃ聴けないし」ってはもんですよねそうよねそうなるよね。私個人は日々思いっきり通勤中でもお散歩中でも2つのアカペラミックスを堪能しているのでそれ自体は不満なんぞひとつもないのだが、流石にこの歳になると(?)「他人が持ってない音源を自分は持ってる優越感」より「聴いて感動して欲しい人に聴いて貰えない寂しさと悔しさ」の方が遥かに大きいんですよ、えぇ。


てなわけで、『パッパパラダイス』自体はまず5月6日に配信になる(フル解禁は前日のトレボへで!)わけだけど、6月24日になったら、2『Gold 〜また逢う日まで〜』や『Electricity』や『Mine or Yours』のように、単曲配信からEP配信へとシフトしてくれる事を願うわけでして。パッパラレコードのB面曲をフィーチャーしてね。でも、そうね、アナログ盤を売る為に、配信開始を2週間とか1ヶ月とか遅らせるくらいなら、してもいいのかも、しれないわね? どうなんでしょねそこらへん。あとついでに、上記通り、そろそろ『First Love (A Cappella Mix)』&『初恋 (A Cappella Mix)』もサブスク配信しちゃっていいと思うんですが如何でしょーかっ!?


昨日のヒカルの『ちなみにですが 人のライブに飛び入りの予定はございません』発言に対する憶測のまぁ幅広い事。『先読みのし過ぎなんて意味の無いことは止めて』って歌ってくれたのも今は昔か。


毎度書いてる通り、ヒカルの書くことは書いたまんまを受け止めればいい。そんだけ。その時点で必要十分な内容だから。昨日も書いた通り、「人のライブに飛び入りする“予定はない”」と言ってるだけで、過去に井上陽水やMIKAや88risingやARCAのステージに飛び入りしたことがないとかその事を忘れてるとか言ってるわけでもないし(忘れててもいいんだけどね)、今後一切他人のステージに飛び入りしないと宣言してるわけでもない。あクマで2026年4月14日の日本時間夜の時点でその予定が存在してない、ってだけ。ほんと書いてあるまんまを読めばいいだけなんだけど、難しいやね日本語は。


霞ヶ関や京都洛中なんかでは、寧ろ言ったこと書いたことの反対(逆や裏)を解釈するとより言いたい事に近づけたりするからほんま重症よね。文明文化の衰退ぶりをはかる尺度じゃないかとすら思うよ。何しろ書いてある事をそのまま捉えたら適応障害扱いされる事まであるんだから明らかに社会の方がおかしいんだが、世の中常に多数派が偉そうなのはもう仕方ないわね。日本語圏の場合、そのせいで数学嫌いが多いように見えてるし。あれ、最も「書いてあることをそのまま読む」事が要求される言語だからね…法治と人治の曖昧さもここに根源がありそうな…


…って何やら話を大きくしてしまったのでそこは寝不足のせいにしておくことにして(ずるい)。ヒカルの言葉はそのまま受け取っておくのがいちばん得なのよ。昨日も書いた通り、こんなに消費者側に立った発言をしてくれる売り手側の人間もそうはいないんだから、まるっと信用しちゃえばいい。勿論誰かの発言に対して憶測や推理や妄想をするのは自由だし好きに発言すればいいし私もずっとそうしてきてるのだけれど、長い目で見た場合結局宇多田ヒカルの発言はそのまま受け止めるのがいちばん得するし理に適ってるし話の見通しがいい。あれやこれや疑いまくった挙句最終的に「あ、全部最初に書いてあったわ」になりがち。余りに普段メディアやSNSに不誠実な言葉が溢れてるもんだから、誠実で真摯な発言を貫いてる人の言葉をそのまま受け止められなくなってても仕方がない面はあるけれど、誰を信じるかは自分で決める事だから、そうね、やっは好きにしてくれたらいいか。


…などなどと赤の他人である私に自信を持って断言されてしまうほど昔から発言に一貫性と信頼を重ねてきたヒカルさんですが、過去には息子に一度目の結婚を隠していた事を自ら迂闊にバラして修羅場になった?事もあり、プライベートで近しい人たちからみたら「あの人すぐ惑わしてくるから」みたいな定評ができてるのかも、しれません。…うん、それはうちらの与り知るところではない!(笑)