直太朗さん曰く、

可愛いものを可愛いと感じた瞬間が大事で、

「可愛い」

と言葉にした瞬間にその意味はとても薄っぺらいものになってしまうんだって。

わかる気がする。

感じた瞬間の気持ちはもっと繊細で美しいものだと。

子供の感覚ですかね。

そうありたい。

そうすると社会ではやってけなくなるっていうこの現実をどうすりゃいいのか。

考え始めたところから感性の死が始まるのかな。

まったく板挟みだよ。もお。

考えるのやめちゃおうかしら(笑)









要は何処からどこを見ていてどんな結末を目指しているのかってぇ話で、

目指した先が「諦め」「無関心」「拒絶」になっては何の意味もないってこと。

諦めるために我々生きている訳じゃないと思うんです。

諦めと許容は真逆。

許容しないとね。

そのへん混同してる場合が(自分も)多くて、

こりゃどーにもならんやね。

自身が「許容です」と自信満々に言い張っているなら尚更。

掛ける言葉といえば、

「あー…そっかー」

ぐらいしか浮かばない。

内観することでしかそりゃー自覚できないなと思うので、

内観しようと思います。

日々内観。

人の振り見て我が振り直せ。









自分がなんで芝居やってんのかなーとか思うと、

その時々でいろんな解答が浮かぶわけで、

しかしながら共通して言えるのはそこに、

「ヒトへの可能性」

について希望的に考えているからってのがあります。

それは同時に、

絶望したらなんの価値も感じなくなる、

ということにつながる。

絶望しちゃならん。

「熱を持たない者に人を感動させることはできない」

と言い切る某アイドル。

その通りだな。

熱が伝染して人を動かすと信じていなきゃやれないね。

信じられないならやめたほうがいいし、

信じられるならやるべきだ。

俺はやりたいなぁ。やるよ。うん。